童話「羽衣伝説異聞」
にゃあご。にゃあご。ふぎゃあお。
人が寝静まった江戸の町で猫が呼び合う声がします。ほかに聞こえるのは木戸のそばの柳が風に揺れるかすかな音だけです。
長屋のいっとう端の戸がかたりと鳴って、中から若い男が出てきました。
陽春という名の売れない絵師です。手には紙と筆が握られています。
「よっ、と」
井戸端に腰をおろし、膝の上に紙を広げました。
ここは裏長屋。
町人の暮らす長屋には、表長屋と裏長屋があります。
表通りに面している表長屋では煮売り屋などの店をやっていたりしますが、陽春のようなひどく貧しいものは裏長屋にくらしています。裏長屋は日当たりの悪い裏通りに面していて、表長屋よりずっと多くの人たちがくらしています。
裏長屋では、みな日が落ちるとはやばやと眠りにつきます。明かりをともす油がもったいないからです。陽春などはもったいないどころか一滴の油さえないので、ほんとうならば眠るしかないのです。けれども陽春は眠らずに井戸端へと出てきました。今夜は月が明るかったからです。
月明かりが陽春の手元を照らしています。紙の上をするすると筆がすべり、町並みや犬猫や子供たちが描かれていきます。目の前にないものを描くことだって陽春にはどうってことありません。陽春は売れない絵師ですが、絵はうまいのです。
日ごろは岡っ引きに頼まれた人相書きなどでわずかな銭をもらっています。陽春は力があるわけでもなく、人と交わることがうまくもないので、できることといったら絵を描くくらいなのです。
くらしのために人相書きを描いてはいるけれど、もっと好きなものを描きたいと思うのが絵師というもの。しかしそれでは銭にならない。銭がなければ食うものもなく、暮らしていけない。だから銭になる絵を描いたあとで好きなものを描くのでした。
今宵は、井戸端に陽春の影が落ちるほど明るい月が出ています。
にゃあご。にゃあご。
長屋の屋根の上では二匹の猫がまだ鳴き合っています。陽春は猫と紙を見比べながら写し取っていきました。
その紙の上をふっと影が横切った気がして、顔を上げました。雲が月明かりをさえぎったのかと思ったのです。しかし、雲ではありませんでした。
月の手前を細長いものがひらひらと舞っているではありませんか。帯か反物のように見えますが、そんなものが空高く舞っているはずもありません。しかも真夜中です。干していたものが飛んだわけでもないはずです。
やがて、ひらひらしたものは屋根の辺りまで落ちてきました。二匹の猫がじゃれて飛びかかります。
ふぎゃあお。ふぎゃあお。
その布は手ぬぐいよりもずっと薄く、夜空が透けて見えました。猫は奪い合っています。ぎゃうぎゃう騒ぎながら布を引き裂いて、それでもまだ奪い合いを続けています。
それから屋根の上をどたどた転がって、猫二匹と布はひと塊になって向こう側に転げ落ちました。
ぎゃう! と叫び声が聞こえた後、二匹は走り去ったのか、騒ぎ声はしだいに遠のいていきました。
裏長屋に静かな夜がもどってきました。
あのひらひらしたものはなんだったのだろう。
陽春が首を傾げつつ、筆を握り直したときでした。
どたっ。
大きな音に再び顔を上げれば、長屋の屋根に大きな穴があいていました。陽春の家です。
いったいどんなものが落ちてくればあんな大穴があくんだ?
慌てて立ち上がると、周りが寝静まっていることなどすっかり忘れて我が家の戸を勢い良く開けました。
するとそこには、ひとりの女がいました。
陽春はすっかり驚いてしまい、横になっている女を助け起こすでもなく、声をかけるでもなく、ただ穴の開いた天井と女を見比べるだけでした。
美しい女は、薄地の着物をまとっています。人ではないとひと目でわかりました。なぜなら女の体は蛍のように光っているからです。ぽう、ぽう、とやわらかな明かりが強まったり弱まったりしています。
四畳半一間の家に人が隠れる場所などありません。となると、この女は今まで家に潜んでいたのではなく、やはり空から降ってきたことになります。
もぞっと女が動きました。
「ひっ!」
陽春は後ずさりをしようとして尻もちをつきました。
起き上がった女が腰をかがめて、陽春の顔をのぞきこみます。
「わたしの羽衣を見ませんでしたか?」
「そんなものは……」
といいかけて、陽春は口をつぐみました。もしや、と思ったのです。猫が奪い合っていた布……あれが羽衣なのではないか。
「羽衣かどうかはわからないが、薄地の布なら猫たちが持っていった」
「まあ。どうしましょう。あれがないと帰れないのです」
「帰るとはどこへ? どこからやってきたんだ?」
女は黙って天井の穴を見上げました。穴の向こうに大きな月がぽっかり浮いているのが見えます。
「あんた、まさかと思うが」
「はい。天上からまりました」
これが話に聞く天女というやつか。人ではないが、恐ろし気なものでもなさそうだ。
陽春はその場であぐらをかいて座り直しました。
絵に描きたい。強くそう思いました。しかしいくらなんでも困っている人のことを描くのはあんまりだろうと、描きたい思いをこらえます。
「やはり、帰れないと困るのか?」
「はい。今宵のうちに。舞楽の催しで笛を奏でなければなりませんから」
「舞楽か」
「はい。わたしは龍笛を」
そういって、天女は懐から横笛を取り出しました。
「そんな大事な日に、あんたはなんで地上にやってきたんだ?」
「望んで参ったわけではありません。落ちてしまったのです」
「落ちたとは、天上から?」
「はい。天上から」
「なんでまた」
天女ははずかしそうにうつむき、小さな声でいいました。
「わたし、龍笛があまり上手ではないのです。それで、天上の縁に腰かけて稽古をしていたのです。地上を眺めながら吹いていましたら、真夜中だというのに絵を描いている人がいるではありませんか。あなたの絵に見とれるあまり、いつしか身を乗り出していて、それで」
「落ちてしまったと?」
「……はい」
話している間も、天女は陽春の手にある紙をじっと見ています。それに気づいた陽春は、紙を背後に隠しました。絵草紙問屋にも版元にも毎度断られるような絵です。褒められて喜ぶよりも、手元で見てがっかりされることの方が気にかかるのでした。
「おれの絵なんか、てんでだめです」
「どうして? 目を引かれます。天上から落ちてしまうほどに」
「それは遠目だからだろう。天女といえども、遠目ではよくわかるまい。あんたこそ熱心にひとり稽古をするほど笛が苦手ということもなさそうだ」
「舞楽は好きです。特に龍笛は。けれどもみなにいわれるのです。あなたの音には心がないと。思いが乗っていないから、聞くものに響かないと」
陽春は思わず身を乗り出しました。
「おんなじだ! おれも、絵を売りにいくと同じようにいわれ、追い返される。心がない、思いがないと。自分に向けて描いたものなど誰にも届かないと」
「そう! そうなのです! わたしもそのようにいわれるのです」
天女も身を乗り出すものだから、二人の頭はいまにもぶつかりそうです。
「でも」と天女はいいました。「でも、あなたの絵はわたしに届きました」
「天上から落ちるほどに、ですか?」
「はい……落ちるほどに……」
はずかしそうに笑う天女を見て、陽春はこの人に絵を見てもらいたいと思いました。じっくり見たら思っていたものとちがうと思われるかもしれませんが、それでも天女に見てほしいと思ったのでした。
おそるおそる紙を差し出すと、天女のまとう光がぱあっと明るくなりました。
「見せていただけるのですか?」
「ああ。代わりといっちゃなんだが、あんたの笛を聞かせてくれよ」
「わたしの笛など……」
「それならばおれの絵も……」
陽春が紙を手前に引き寄せようとすると、天女がその手をそっとおさえました。ちっとも触れた感じがしないのに、手が重ねられているとわかりました。陽春は紙から手を離しました。天女が手に取り、うっとりと眺めています。そこには屋根の上の猫たちが描かれています。
「まあ。なんて愛らしいこと」
「その猫たちがあんたの羽衣を持っていったんだ」
「まあ。なんて憎らしいこと」
天女があまりにも悔しそうな顔をするものですから、陽春は声をたててわらってしまいました。あわてて口をおさえます。長屋の壁は薄いので、隣の人たちを起こしてしまうからです。しばらく耳を澄ましていましたが、どうやら誰も起きた気配はありません。
「みんなを起こすとめんどうだ。よそへいこう」
陽春が外へさそうと、天女はおとなしくついてきました。
外へ出たものの、夜は木戸がしまっていて長屋の外に出ることができません。どこで話しても誰かが起きてしまいそうです。
陽春が困っていると、天女が手を差し出しました。二人は手をつなぎ、ふわりと浮き上がります。
「うわあ」
「手を離さないでくださいな」
「羽衣がなければ飛べないのではなかったのか?」
「このくらいならば、羽衣がなくてもどうってことありません」
二人は寝静まった夜の町をふわりふわりと飛んで、やがて町はずれの荒れ寺の屋根の上に舞い降りました。
「さあ。ここならいかがです?」
「ああ。ここなら誰にも気兼ねせずにすみそうだ」
「では、約束ですから」
と、天女は懐から笛を取り出し、すっと横にかかげると小さな唇をそっとつけました。
細く高い音が伸びます。雨上がりにきらめく雫を連ねた蜘蛛の糸のような音でした。やがてそれは鳥の声とも鈴の音ともつかない優し気な音色へと移り変わり、耳にしたことなどないはずの星々のきらめきの音へと広がっていきます。
天女の姿がぽう、ぽう、と光るのに合わせて、荒れ寺を取り巻く草むらにひそむ蛍がぽう、ぽう、と光ります。その様はまるで笛の音に合わせて歌っているようでもありました。
陽春はいつしか筆を走らせていました。このすばらしい笛の音をたたえる言葉は思い浮かびませんが、絵でなら伝えられる気がしました。
天女は笛を吹き、陽春は絵を描きます。
どれくらいそうしていたのでしょう。東の空が白み始め、鳥たちが目覚めました。草むらの蛍の光は消えていました。
天女は笛をおろし、陽春は筆をおきました。
羽衣が見つからないまま朝をむかえてしまいました。
「あんたの笛はすばらしかった。心がないなんてことがあるもんか。おれには届いた」
「もうおそいです。わたしはついに帰れませんでした」
天女はさみしそうにわらいました。陽春は思い切っていいました。
「天上になど帰ることはない。おれのところに……」
日が昇り、真新しい朝日が荒れ寺の屋根を照らしました。朝日は、陽春の手にある絵をも照らし、白く輝きました。
「これは……」
「ああ。笛を吹くあんたを見ていたら描かずにいられなかったんだ」
そこには笛を吹く天女が描かれていました。なくしたはずの羽衣をまとった天女が。
朝日に吸い上げられるように、絵に描かれた羽衣が浮かび上がってきます。するすると紙から抜け出し、たちまち薄くやわらかな羽衣へと変わりました。そしてそのままひらひらと揺れながら天女の肩にかかりました。
「まあ。なんということでしょう。あなたの絵は心どころか命までもっているではありませんか」
羽衣をまとった天女はふわりと浮きました。
「待ってくれ。いかないでくれ」
陽春は手を伸ばしましたが、天女はするりとよけて悲し気に首を横に振りました。
「お会いできてよかった。天上に帰っても、あなたのために奏でましょう。月明かりや星々のきらめきの音が聞こえたら、わたしの笛の音だと思ってください」
「どうしても帰るのか。ならばおれはあんたに届くような絵を描こう。どうか見ていてほしい」
そうして天女は陽春が描いた羽衣を身にまとい、ひらひらとなびかせながら天上へと帰っていきました。
その後、陽春の絵はまるで語りかけてくるようだといわれ、たくさんの絵草子になりました。天上では、天女の龍笛も大切な人を呼ぶような音だといわれているかもしれません。
そして、陽春の耳にこんなうわさが聞こえてきます。ときおり羽衣をまとった二匹の猫が江戸の夜空を飛んでいるのだと。