自分の中にある偏見に打ちのめされた話
偏見や差別はよろしくない。
そんなことは常識以前の問題である。
もちろん私もそんなものは持ちたくないし、持たないようにしようと心がけてもいる。それでも残念ながら、どれだけなくそうとしても皆無にはならないんだろうとも思っている。そして、自分は大丈夫と思い込まずにいることは大切だと思っている。
そうはいっても、それだけ意識しているのだから、そうそう偏見を自覚する場面もないはずだ。
はずだったのだが。
とあるショッピングモールでのことである。
私はトイレに行った。もちろん女子トイレである。
女性のみなさんはご存知だと思うが、女子トイレは常に並んでいる。すいていると言うときは、個室の大半が空いている状態ではなく、列が短いことをさすと言ってもいい。
私の前には親子が並んでいた。若い母親と幼稚園児と思われる子だ。年少さんだろうか。もしかしたらもう少し幼いかもしれない。髪は背中まである長いおさげ。服はピンク色でフリル付きのTシャツに花柄のレギンス。
母親が腰を折って子どもに話しかけている。
「たってする? たってできる?」
盗み聞きするつもりはないが、ただ列が進むのを待っているだけなので、意味もわからず聞くともなしに聞いていた。
「たってする」
子どもが答えた。
「できる? たってできる?」
母親が念を押す。
そして、その親子が列を抜けようとしたことで、親子によって遮られていた視界が開けた。
子ども用小便器があった。
ここでようやく「たって」が「立って」だったのだとわかった。
たまげた。
私は目の前の子どもを完全に女児だと思っていたのだ。「立ってする」の意味を思いつきもしなかった。
結局、親子が列を抜ける直前に個室が立て続けにあき、その親子は個室に入って行った。
私の幼馴染みの中には、「大きくなったら女の子になるの」と宣言している男の子や、女の子とお付き合いをしていた女の子がいた。誰もそれを特別なことだとは思っていなかった。もちろん私もである。
だから他のことならともかく、性別については早い時期から男女の別だけではないという価値観を持っているつもりだった。
それがこのざまだ。
愕然とした。
私はただトイレに並んでいただけで、表情すら変えていないはずである。失礼な態度はとっていないことはたしかだ。それだけはよかった。
けれども、私は、私自身に幻滅した。
女児だと思ったからではない。与えられた情報から判断したものが、自分がこれまで見聞きしたもののうちで合致率の高いものになるのは当然だろう。
無印良品の店内で店員かと思って近寄ったらお客さんだったり、ねこちゃーん!と近寄ったらビニール袋だったりもする。だけど、すぐに「あっ、ちがった」と気づく。それが偏見のない見方というものだろう。
今回私は、「立ってする」の意味がわかった瞬間に「あっ、ちがった」とは思わなかった。「え? なに? どういうこと?」と思ったのである。偏見から離れられなかったのだ。
そのことに気づいてショックを受けた。自分がどうやってトイレを済ませたかも記憶にない。せめて手は洗ったと思いたいが自信はない。
想像と違ったことを受け入れられなかった私は、まだまだだ。
そして、やっぱり自分を過信してはいけないなと改めて思った。
という、自分に打ちのめされた話である。