群雲のような白い花房の中
あたしはその頃少しばかりぶっ壊れて、メンテナンスをしなければならなかった。ドクターストップがかかって、二週間の療養を言い渡された。そんな風にぽっかりと暇になったのは、久しぶりだった。久しぶりすぎて、何をしたらいいのか分からなくてぼんやりした。
いや、分かっている。何もしたら“いけない”のだ。怠惰なねむりひめのように眠りから目覚め、孤独なラプンツェルのように部屋の中にこもり、憂鬱なシンデレラのように灰の中でじっとしている。不用意に心を動かしてはいけない。あたしの心はじゅくじゅくしていて、ふとした拍子に出血するから。心の出血は涙。近年覚えがない程に、あたしはよく泣いた。
『桜がきれいだよ』
二十一世紀のラプンツェルの塔には、携帯電話が存在する。短いメールが届いた。
『出てこない?』
あたしはベッドから自らを引き摺り出すように這い出て、メールの主に電話をした。
「今どこなの」
『高田馬場』
「待ってられる?」
『どのくらい?』
「一時間くらい」
『いいよ、待つ。着いたら電話して』
着替えをして化粧をするのは、驚くほど時間がかかった。関節に油を差すのを忘れた機械人形みたい。きしむような体を動かしてそれでも家を出、電車に乗った。昼間の電車は嘘みたいに空いていて、向かい側の座席に若いおかあさんと幼い子どもが小さく歌を歌っていた。
改札を出て電話をすると、相手はすぐ現れた。
「元気そうじゃん」
「そりゃあ、すぐに死にはしません」
「いいことだね。じゃあ、行こう」
連れられて、あたしは早稲田方面に向かって歩いた。街の中は人でごちゃごちゃしていて、あたしの足はたびたび遅れた。
「神田川沿いのね。桜がきれいだから」
と相手は言い、いろいろな抜け道を通ってショートカットし、神田川沿いの遊歩道に出た。
「あ……」
思わず声が出た。白い白い群雲。花房の群舞。もくもくと盛り上がり、幾重にも幾重にも折り重なる、圧倒的なフォルム、フォルム、フォルム。
桜は短いその生を、何も知らなげに、そう、命に限りがあることなんて何も知らないように、無心に、うつくしく、咲く。
「泣きミソ」
あたしの顔を覗き込んで、相手が言った。だってきれいで。そう言おうとしたら、口からひーんという泣き声がもれた。あたしは下を向いて、手の甲で涙をぬぐいながら、えんえんと泣いた。相手は何も言わずに、あたしの頭をぽんぽんと叩いた。白い白い群雲が、あたしたちを上から包み込んでいた。
(「爛漫乙女selection -pain-」より抜粋)