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002:「みんなが祝福してくれる相手」を追い求めるな、「わたしが快哉を叫ぶ相手」を掴め。まあ、とは言ってもね……。【スピ婚】

 わたしがゆっくりと進めていたお話が、破談になりそうです。実際にふたりを会わせる寸前まで来ていたのですが、女性からお断りが入りました。まだ詳しい話は聞いていないのですけれども、すごく悩んで思い惑った感じは伝わってきます。読み取れるところでは、どうもメインの要因は、周囲の目や評判を気にして、のような気がします。結婚って、無人島で二人きりで暮らすというものでもないので、それはそれで致し方ないなあ、とは思うのですが、勿体ないのは、まだ一回もデートしたことがなくてお付き合いもしていない、というところです。わたし、このふたりは雰囲気がなじむところがあって、一緒にいると安らぐんじゃないかな、という気がするんですよね。だから。

 結婚相手やお付き合いの相手として選んだ人を周囲がどう評価するか、というのはそれはそれで大事なポイントですが、だから「そんなものは気にするな、自分の心のままに進め!」と無責任に煽る訳にもいかないのですが、わたしとしては、(そこはとりあえず二の次でいいんじゃないかなあ……)と思っています。なぜかというと、「誰が見ても非の打ち所がない」「みんなが納得して祝福してくれる」、そういう相手って、結局はまぼろしなんですよね。そういう相手だと安心できるし、嬉しいけど。どんなに立派な人でも、誰かしらはケチつけますよ。「性格はいいけど稼ぎが」だったり「いいところに勤めてるけど出た学校が」だったり「本人はいい人だけどあの人の伯父さんが」だったり、それこそまったく非の打ちどころがなかったとしても、「それは分かるけど、でもわたしは好きになれない」みたいな打ち明け話が、ものすごく親しい間柄の人から出てこないとも限らないです。それは当たり前の話で、人それぞれ価値観が違うから、だからこその違う評価なのですよね。また、周囲のみんなが太鼓判を押す相手を好きになれるのか、というのも、別の話です。

 自分のことを考えてみると、どう考えてもわたしの彼氏は「みんなが祝福してくれる相手」じゃないような気がします。今年の大晦日、両親に彼氏の詳細をカミングアウトする羽目になった時は(お仕事を変える話をしたら芋づる式にせざるを得なくなったのですが)、お仕事と彼氏とどっちが原因だったか定かではありませんが、家じゅうが暗くなるわ母親が涙ぐむわ大晦日なのに両親が9時に寝るわで、死ぬかと思いました。今ではご機嫌な明るい家内ですが。わたしとしても、「外国の人で62歳で、2度結婚して2度離婚してて、お子さんが4人いてお孫さんが1人いる人なんだけど、どお?」とかお仲人さんに勧められたら、「えっ、あっ、うん、ううーーーん!?」となる自信はあります。

 そして、昨日【スピ婚:番外編】に質問を頂戴してまたまた考え込んでしまったのですが、わたしだって友人に「でもさあ、トーコさんの彼氏って、全然こっちに来ないでトーコさんに来させるばっかりで、デートの時にも仕事って言ってどこにも連れてってくれないし、ディナーが吉野家だったり、お店の手伝いとかまでさせるんでしょお?その彼氏、大丈夫なの?」と疑問を呈されたら、「えっ、あっ、うん、ううーーーん!?」てなりますよ、多分。

 じゃあ何でわたしはこの彼氏がいい!と言えるのか?というと、いっしょうけんめい自分を見つめ直してみても、「わたしはこの彼氏に快哉を叫んでいる」という本心に辿り着くからだと思います。なぜこれらの要素がそろい踏みの彼氏に快哉を叫べるかというと、【001】に戻ってしまいますが、結局わたしのファーストプライオリティが「Love!」だからなんでしょうね。と書いてみましたが、そうすると今度は「何を以て Love と認識するか」という問題に突っ込まざるを得なくなり、そこでわたしは「え……セックス……!?わたし結局、そこ!?」と少し自分自身に疑念を向けた方がいいような気持ちになってしまうのですが、どうなんでしょうか。もう少しわたしも考えてみた方がいいかもしれない。ただ、デートはわたしが彼氏を訪ねる一方なんですけど、わたしが彼氏に「この日会える?」と訊いて断られたことは一度もありません。一度だけ、「僕の風邪治ってないから、僕たちまだ会わない方がいいと思う(泣)」と言うので、「分かった、next chance ね」とあっさり引いたら、「じゃあキスなしで」と代替案が出てきたことはありました。オトナなので我慢しましたが。それどころか、会いに行ったばっかりなのにむこうから「can we meet this weekend?♡♡♡」みたいなメッセージがくることもあります。なんていうか、「もーとーめーらーれーてーるー!!!」感があまりにも潤沢なので、わたしは彼氏の Love に快哉を叫ぶのだろうな、と思います。そこが多分、わたしのポイントなのでしょう。

 究極的に言えば、自分の心の中や生活を四六時中見張っているような人はどこにもいませんし、自分にそれほどの関心を寄せている人はいません。また、親や親戚や地域のおじさまおばさまがどう考えるのか気になるとしても、よく考えてみてください、その人たちは大体あなたよりは早く死にます。あなたが一生付き合っていかなければならない相手は、実のところは、あなた自身だけです(そして統計的に言えば、大体夫の方が妻より早く死にます)。結局のところは、自分が納得のいく選択をしさえすれば、周りがどう思おうと、それでいいのではないでしょうか。

 勿論、「周りの人に理解してもらえない人生は辛い」というのも、ひとつの大事な価値観です。あとですね、「自分は盲目になっていたが後で考えると周りの人たちの言うことが正しかった」ということもよくあることで、そこが悩ましいところです。わたしも離婚した後で、「母や叔母が最初から元夫を嫌っていた」ということを知って愕然としたことがありますし、つい最近「SNSで知り合った自称外国人男性に騙されかけ、周囲の人たちがみんなやめろと言っているし自分でも薄々おかしい気はしているけど、それでも完全に嘘だと思えない」女子にも出会いましたから、難しいですよ、自分を信じるか周りを信じるかは。ですがやはり、最後は自分を信じて自分で決断するしかないよ、とわたしが思う、その理由は、自分で決断する、ということは、たとえ失敗したとしても自分で撤退することができる、ということなのですし、「あの時あの人の言うことさえ聞かなかったら、今はこんな目に遭ってないのに」とか悔やむ必要がないということなのです。わたしは、自分で自分のケツを持つように生きる、ということは、とてもさっぱりしていて元気になれる道だと思います。これまでの人生を振り返ってみると。

 一方で、「昔はそんなに難しく考えなくても、結婚できた。難しく考えすぎるから、現代は結婚難なのだ」という意見もあります。それはそうかもしれません。結婚する前に死ぬまでの人生をシミュレーションしてよしオッケー、にならなきゃ踏み切れないとしたら、それは勿論結婚など最難関の重い扉です。しかし、主体的な決断を人に任せて言われるままにしたのが昔の結婚なのだとしたら、何も考えず何も感じず一生を全うしないと、ちょっとでも疑問を感じたらアウトですから、その道を行ったら、ふわぁーーーっとぼんやり生きていくのが一番幸せですよね。それはそれで、ハードなタスクなのではないでしょうか。また、「絶対損をしない」「絶対失敗しない」という観点で結婚という選択をしようとすると、とてつもなくミッション・インポッシブルになります。結局は、損をすることも失敗することも引き受けて、それでも自分が望むものを掴みとっていくこと、それが幸せな結婚なのではないでしょうか。もしかするとそれは、結婚に限った話ではないのかもしれません。

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あなたの考える「ケッコン100箇条」、是非「#スピ婚」でお寄せ下さい!

カバーフォトは、「みんなのフォトギャラリー」より、もものたね さんの写真を使わせていただきました。ありがとうございマス!


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菊池とおこ
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