自由な命が人間のものになる瞬間を垣間見た話
今朝は5:30に起きた。
猟師さんの罠の見廻りに同行する。
以前から鹿がお肉になるまでを見てみたかった。
鹿は人間の畑や植林を食害するので、増えすぎないように害獣駆除の対象にされている。
完全なる人間の都合。
そうやって駆除された鹿は、近くに解体処理施設がなければ、利用されることもなくただ処分されるのだ。
無駄な命などないように。
待ち合わせ場所に到着し、
早速、猟師さんの軽トラに軽バンでついていく。
罠は全部で12箇所。今は林業研究機関の協力をされているらしく、罠の確認(誤作動がないかなど)はもちろんそれぞれの罠の付近に設置しているカメラの動作確認も同時に行う。
一般道路から山の方へ入って5分ほど、ここは比較的、民家から近い。付近にある5個の罠を確認。はずれ。
さらに車で20分ほど。山の上の方を目指す。
途中、撮影スポットとして人気のある高原に車を停めて、眺めを楽しむ。富士山と湖が画になるスポット。カメラマンがたくさんいて皆それぞれシャッターチャンスをうかがっている。
雪が少し舞っていた。
再び車に乗り込み、林道から外れたところへ。
両脇にカラマツと背の低いササが群生している道を進む。
道は侵食が激しく、なるべくへこんでいるところを避けて慎重に運転をする。
罠の確認。
7つ目、
かかっていた。
子鹿、バンビだった。
バンビは私達の気配をすでに察知していて、
罠のかかった自分の後ろ左足なんてお構いなく、必死に暴れて、鳴いて、逃げようとしている。
猟師さんが軽トラに積んであった(鹿を入れる)箱と梯子(箱を荷台に入れるため)を素早く準備し、
長い木の棒とナイフを携え、バンビの元へ。
私も後をついていく。
バンビがさらに暴れる。
猟師さんは、チャンスを伺う。
バンビが少し大人しくなる。
猟師さんが木の棒で頭を打つ。
バンビが倒れ痙攣する。
首へナイフを刺す。
一瞬のできごと。
命が確実に人間のものになったとき。
ー1回痙攣させたら、ナイフを刺しても痛みを感じないんだよ
動かなくなったバンビの両後ろ足を持ち、引きずって箱の中へ、そして、梯子を伝って軽トラの荷台へ。
これから、解体処理施設へ向かう。
雪はまだ舞っていた。
︙
私が動物の死を目の前で見たのはこれで3回目だった。
1回目は高知県の農家さんに滞在しているとき。
農家さんの知り合いの人が猟師さんで、その人の軽トラの助手席に乗せてもらい、猟に同行したときだ。
その人は鉄砲だった。
大勢の鹿が逃げていくうち、1頭がふと、私たちの進行方向で止まり、こちらをじっと見ていた。真っ直ぐな瞳だった。猟師さんはその間に銃を放った。一発だった。その鹿は少しもがいたあと、動かなくなった。
鹿の元へ駆け寄って、私はその状態を観察した。
初めての瞬間、怖さは不思議となく、気持ちが高揚していた。
その時鹿の瞳が、宇宙のようにキラキラとして澄んでいたのを忘れられない。
2回目はニュージーランドのとき。
牧場を経営しているところで、働き手の食料として羊を打った時だった。
羊を小屋の中へ追い込み、鉄砲で眉間のところを狙って打つ。羊はしばらく暴れていたが、ある時ふと諦めたようにこちらをじっと見つめた。そこを狙った。羊は倒れしばらく走るような動作をしたあと動かなくなった。
どちらもお肉として頂いた。
少し緊張しながら
︙
バンビが動かなくなってから、解体処理施設に運び込まれるまで30分もかからなかった。
バンビの瞳は深い水色のガラス玉の様だった。
施設の外で高圧洗浄機で水洗い(ダニや汚れを取り除くため)し、中へ運ばれる。
吊り上げられたバンビからホカホカと蒸気が出ていた。
その様に見とれる。
ナイフが再び入れられる。
再び生かすため。
活かされるため。
︙
密度の濃い午前中を過ごし、帰宅。
もう一日が終わってもいいような気持ちで
ぼーっとした日常を過ごす。
夕方、犬の散歩でいつもの公園。
いつものようにリードを外す。
犬はいつものように公園の中をぐるぐると3週走り、
私の元へ、前足をついてお尻を上げて、遊ぼうのポーズ。
それに応えて追いかける。
走る。
走る。
きっと、今日のバンビもこんなふうに走っていただろう。
自由に、森の中を走っていただろう。
自由に走るものにエネルギーはある。
そのエネルギーを人間が授かるシーンを私は見たのだ。
人間が自然からエネルギーを授かるシーンを私は見たのだ。
そのエネルギーを頂いた人たちが
また自由に走りますように。
私もきっと自由に走っている。
楽しく。