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英語習得のおまけ

 私は英語圏で生活できるくらいには、英語は使える。外国語を一定レベルまで身につけた経験がある、という意味だ。(生活できるレベルであって、ビジネスレベルには至らない)

 さて、英語はどうにかできるとして、それが人生において有利に働いたことは少ない。だが、英語を習得したことで獲得した考え方というものは、実はとても有用なものだと思っている。

 私は高校を卒業する時点で、日本語の文章がまともに書けなかった。読書量は1日1冊ベースくらいでインプットだけはあったが、その時点でアウトプットした経験はほとんどない。

 当時小論文の練習で文章を書いたことはあるが、今思えば何もわかっていなかった。主張したいこともなければ、何かを説得するつもりもない。読み書きという意味で日本語を書くことはできるが、文章を作る能力は全くなかったのだ。

 英語を習得するにあたって、英語で文章を書く訓練を繰り返した。その時教わったのが、英語の文章の形式だ。
 特にアカデミックで求められる内容ではあるが、英文は文章の構成は決まっていている。その決められた構成に、内容のあった文を当てはめ、文法的に間違いがなければきちんとした文章になる。余計な事は考える必要がなく、腹立たしいくらい型に嵌まることを要求されたのだ。

 英語で文章を書く時、私は何をしていたのか。出された題目でグルグルした思考から、その型に嵌まるようにキーワードや主張、事実をピックアップして、それらを決められた形に再構成するのだ。
 私が主張したいのは何か、何を持ってその主張を通すか。想定される反論は何で、反論に負けないだけのエビデンスが提示できるか。とにかく、考えたことをそのまま書くことはできず、言葉を型に嵌めるのだ。

 その時に訓練した文章の構成は、実は日本語にも応用が効く。日本語で書く際も、さらには物事を考える際にも、それを知っていることが役に立っている。なんというか、論理的になるのだ。

 母国語というのは、なんとなくでも文章は書けるし、ある程度形にはできる。でも、それが及第点に達するかはセンスの問題になるのかもしれない。

 形式的に文章を組み立てるというのは、ルールがあるということだ。だから、覚えれば最低限のラインを超える程度にはなる。また、主張したいことを再構成するということは、一度感情が離れる。冷静になる余裕ができるのだ。そして、型に嵌めるために主張がシンプルになる。一言で相手を下すような言葉になるまで、余計なものを削ぎ落とさなければならないのだ。

 英語が困らない程度に使えるレベルの人は、いくらでもいるだろう。しかしながら、その学習過程で得た考え方は、言葉を習得するよりも得難いものであったのだと思う。

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