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バンジャマン・ゴソルリオンの物語
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卵は二つ。ボウルで溶いて、スクランブル・エッグを作る。同じフライパンの上で、スライスしたソーセージがジュウジュウと音を立てて焼き色を付けている。隣のフライパンでは二枚のパンケーキが焼けたところだ。
朝の薄暗いキッチンを、灯りもつけずにもそもそと動く、大柄な男の影がある。卵と肉とパンケーキを皿に盛り付ける頃、ドリップ式のコーヒーが入る。これがバンジャマン・ゴソルリオンの朝食だ。
筋骨隆々の体躯。左上腕の刺青は極めて意匠的で、一見して文字とは思えないが、英語アルファベットで"GOTHOLLION"と描かれている。記憶を失った彼のセカンドネームはここから付けられた。
バルベス…パリ18区にいた頃はもう少しマシな、つまり栄養バランスの摂れたメニューだった気がするが…と彼は思案する。だが現状に不平を洩らす気は全くない。むしろ日々の糧に感謝の念を絶やさないのが、彼の自然なアティチュードといえた。棲まいがあり、食べものがある。なんと有り難いことであろうか。
祈りにも似た短い沈黙の後、彼は食事を始める。
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夕刻。街のライブハウスにチラホラと客が入り始める。バンジャマンは愛器のゲンブリを爪弾きながら調律を行っている。船のような形に切り出されたイチジクの板に三本弦。ピンと張った駱駝の皮の感触が心地良い。
グナワという音楽の発祥はモロッコだが、アルジェリアなどの北アフリカ地域でも演奏されている。グナワに出会ったのは、アルジェリアのアパートを間借りしながら地中海で船乗りをしていた頃だ。視力を失い船乗りを引退した後、グナワは彼の生活により一層欠かせない存在となった。
やがてライブハウスの照明が落ち、スポットライトがバンジャマンの姿を写し出すと、小さな歓声が其処彼処から上がった。このような小さな街にも彼の音楽を求める人々がいる。
一曲目のパワーチューンが始まった。地の底から湧き上がるような力強い歌声に、エレキ接続されたゲンブリの重低音と、鉄製カスタネットじみたカルカバの賑やかな金属音が重なる。節くれ立った武骨な指が、三本弦の上を魔法のような滑らかさで動く。彼の視線は目まぐるしく動く指先に注がれているようで、その実何も見ていない。蛍光色ラバー樹脂のアイウェアは、そもそも視界を遮るデザインであった。
盲目のゲンブリ奏者。
人々は彼のファンクなサウンドに魅了される。最初の曲を奏で終えると、彼は聴衆に向かって語り始めた。
「海は…異界へと繋がっている…。」
太く掠れた声。
「俺には10年以上前の記憶がない。最初の記憶は南太平洋のど真ん中で遭難していたときだ。自分が何処から来たのか。その出発点は分からない。だが音楽が俺の友となってくれた。俺たちは旅の途上という訳だ。今夜は楽しんでいってくれ。」
地中海の潮風を思わせる力強い歌声を、微かに日本的なゲンブリの演奏が彩った。
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大抵の人間は一つの世界で生まれ、人生を過ごし、死んでゆくと考えられている。だが、少なくとも自分達はそうではなかった。一生のうちに複数の世界を渡り歩く者たち。次元旅行者という。
生まれ育った世界で、ある日突然次元旅行者として覚醒するのか。或いは、所属世界をそもそも持たぬ者達なのか。議論の分かれるところではある。転移先の世界でそれ以前の記憶を失うケースが散見されるため、真相は判らない。しかしパリからこの街に来た時、記憶が失われることは不思議となかった。
ここは、世界と世界の狭間のような場所。訪れた次元旅行者達が繰り返し繰り返し手を加え、今では暮らすのに不自由しない程度の街にまで発展した。驚くべきことだ。
なぜ自分がここに来たのか。これから何処へ向かうのか。それは全く分からない。
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