疑うべきは生活水準。見つめ直すべきは可処分所得。ハードモードに突入するこれからの日本では、こんな風な考え方になってみよう。『デタラメだもの』
生活水準という言葉がある。可処分所得という言葉がある。前者は、平均的に己がどれくらいのお金を使って生活しているかの程度のこと。後者は、家計の収入から支払いを義務づけられている税金や社会保険料などのお金を差っ引いた残りのお金。例えば、うまい棒を買ったりチロルチョコを買ったりに使えるお金だ。これら2つの存在は大いに関係があると思うわけだ。
どうやら我が国は、世界的にも例を見ないほどの高齢化社会に突入しているらしい。それも要因のひとつとして、これから先の日本経済は悪化の一途を辿って行くらしい。まあ、悪化というよりかは、他の国々が日本よりも躍進していくということだろうけれど。ともかく、これから先の我が国では、潤った暮らしを継続していくことは難しいことが予想される。
はははん。いいことに気づいた。たとえ先々の国の展望が暗かろうが、幸せに生きて行くことさえできれば、人間として何ら問題がない。上向かない景気のせいにするから愚痴が出るのだ。昇給もせず賞与も出ない会社のせいにするから不満が出るのだ。世界を変えることなんて不可能だ。自分を変えてやるほうが手っ取り早い。ではどのように変えてやればいいのか。ふふふん。生活水準を見直せばいいわけだ。はははん。
その答えは、疑ってみることにある。金銭を支払って得られるものの価値を疑ってみることから始めてみようじゃないか。少し値の張るランチや、少し値の張る飲み屋に行っている人は疑ってみよう。なぜ、値の張るものを選んでいるのか。もしかすると、少し値が張ることと美味しいものはイコールの関係ではないかもしれない。だったらなぜ、少し張る値段を自分は支払っているのだろうか。
そう言うと人は、「使ってる食材が違うんだよ」「美味しさよりも雰囲気にお金を支払ってるんだよ」と言ってのける。では考えてみよう。こだわりの食材が使用された料理を食べなければならない理由は。飲んで語らう空間に、果たしてその雰囲気は必要なのか。今一度、考えてみよう。
トドメはこうだ。仮に「五百円のランチなんて安くて食えないぜ」と思っている人がいたとしよう。「そんな安いものは俺には似合わいないぜ」と。だから「千円のランチを毎日食べているんだぜ」と。
しかし世の中には、三千円やら五千円やらのランチを食べている人だっている。そういう人からすると、五百円のランチも千円のランチも大差ないはずだ。千円のランチを食べている人を見て、「あらまぁ、安いランチを召し上がってらっしゃること」と、嘲笑しているかもしれないのだ。
にも関わらず、たった五百円の差分を生むことによって、プライドを維持しようとしている。ほら、そうやって考えると、五百円のランチを選ぶことに何ひとつ躊躇わなくなるだろう。
服装や髪型だってそうだ。人気商売をしている人たちを見て、「自分もあんな服を着てみたいな!」と憧れを持ち、定期的に服を買い、髪型を整える。しかしだ、人気商売をしている人たちは衣装として提供されたものを着ているんだし、商売のジャンルによっては経費で洋服を購入できるケースもある。あれは消費ではなく商売をするための道具を買っているに過ぎず、とどのつまり、より多くのお金を得るための道具を購入している。投資だ。投資なんだよ、アレは。人気商売をしていない人たちの消費という行為とは、性質もワケも大きく異なるわけだ。
たとえ毎日同じ服装だろうが、髪型が乱れていようが、地球上の赤の他人たちは誰ひとり他者のそんなものに注目して生きてはいない。みんな自分にしか興味がないし、自分のことで精一杯。たとえ、「うわぁ、あの人の髪型、なんか変っ!」と思われたとしても、他人が抱くそんな記憶は一瞬で消え去ってしまう。世界は誰もあなたのことを気にしていない。気にしてもらえるほどの逸材ならば、既にあなたは人気商売をして生きていることだろう。
もし、無人島で孤独に暮らすならば、服装なんて変えやしないし髪型なんて気にしないはずだ。結局は、他人の目を気にして生きているから、服装や髪型にお金を支払ってしまうわけ。他人の記憶になど残るわけもないのに、他人の目を意識してお金を支払ってしまう。人間としての悲しい性と言わざるを得ない。
買い物をしている瞬間に幸せを感じるタイプの人もいるだろう。要するに、お金を使っている瞬間に幸せを感じるタイプの人だ。きっとこれは、つまらない仕事を耐え忍んで得たお金を、自分の自由に使っているという開放感から感じる幸せなのだと思う。しかしだ、こうやって言語化すると、少し寂しくならないだろうか。延々と回し車の中を走り続けるハムスターの姿を見て、それを習性だと片付けてしまう人間たちも、同様の習性を持っているということになる。
ほうら、こうやって考えてみると、お金を使う場面って実はそれほど多くないということに気付かされやしないだろうか。今や娯楽に使うお金は、限りなくゼロに抑えることもできる時代。「たまには豪華に生きなきゃね!」「たまには自分へのご褒美を!」といった言い草は、固定観念が生む呪縛か、他人と自分を比べたときに自分が劣っていると感じてしまう錯覚。そもそも他人と比べて何になるというのだろうか。
冒頭の話に戻ってみる。これから先の日本で楽しく生きて行くためにまずは、己の可処分所得を正しく知る。そして、己の生活水準を疑ってみる。抹消できる支出はないだろうか。代替できる楽しみはないだろうか。他人の目を意識するがあまり、支払うことを当然と思い込んでいる支出はないだろうか。
そんな風に言うと人は、「なんだか地味な人生になりそう」「楽しみがなくなりそう」などと言う。では問いたい。皆さんはそれほどまでに華やかな人生を送っているのだろうか。それほどまでに楽しみに溢れた人生を送っているのだろうか。胸を張って「イェス!」と言える人は多くないはずだ。だとすると、生活水準を見直すことに対し、何を躊躇しているのだろう。
ハードモードに突入するこれからの時代を生き抜くため、自分は利口にも生活水準を見直してやれ。何から変えられるだろうか。そうだ。まずは居酒屋に入ってお酒を呑むことから疑ってみることにした。
ほんの数年前までは、雨の日も風の日も、真冬の凍えるような夜も、外で缶ビールを呑んでワイワイやっていた。後輩とどうでもいい話をしながら、屋外で缶ビールを呑んで過ごしていた。あまりの寒さに鼻水を垂らしながら、手袋をはめて缶ビールを呑む後輩の姿は、今でもまだ目に焼き付いている。
それからお互い少しは稼げるようになり、今ではようやく、界隈で最も安いとされている居酒屋の上位3店くらいなら、何とか店で呑むことができるようになった。周囲の人間が聞けば、「えっ? そんな安い店あるのん?」と、目を丸くするような価格帯の店ではあるが、我々にとっては大きな進歩だ。大躍進だ。これを成長と言わずして、何を成長と言おう。
しかしだ、なぜ店で呑む必要がある。店に何を求めている。缶ビール宴会に比べると、店に入ることで出費は3倍ほどには膨れ上がる。そうまでしてなぜ我々は店に?
己の出費と向き合い、それを疑い、是正しようと試みた僕は、とある仕事終わりの寒い夜に後輩に言ってみた。「まぁ、今日はサクッと呑むだけやし、久々に缶ビールにしよか」と。
すると後輩は言った。「アホなこと言わんといてくださいよ、こんな寒い日に。金が無いんだったら僕が奢ってあげますから、店入りましょ」と。後輩の生活水準が以前よりも遥かに高くなっていることが心配になった。そして、後輩から金が無いと思われていること、マッチ売りの少女を憐れむような目で同情されていることに情けなさを感じた。アホな、アホな。こっちは生活水準を見つめ直したいだけじゃい。
後輩に促されるまま、界隈で最も安いとされている居酒屋の上位3店を巡るも、どこも満席。さすがにこうなってしまっては、後輩も缶ビールを避ける理由がない。懐かしの缶ビールで乾杯でもしようかと思った矢先、後輩は言った。「どこも満席ですし、また明日呑みましょか」と。彼は缶ビールを忌避しているのだろうか、それとも……? そもそも一緒に呑みたいと思ってもらえていないのか? そんなに好かれていない? いや、むしろ嫌われている?
そんなことを考えているとやたら悶々とし、帰り道で缶ビールをグイグイやってしまった。結果的に、店に入るよりも支払いが高くついてしまったことは言うまでもない。
デタラメだもの。
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