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老いらくの恋 第12話

南九州に恋しています
これは西都原(サイトバル)古墳群です。
宮崎県西都市にある、前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基、西日本最大の古墳群です。
私が最初に訪れた時は、ここから約4km東南の新田原(にいたばる)自衛隊基地から飛び立った戦闘機が轟音を発して飛び交っていました。

西都原古墳群

さて、この地にいったいどんな人々が住んでいたのでしょう。
ここから北に宮崎県三郷町に「百済の館」なるものがあります(私はまだ行った事はありません)。なんでこんなところに「百済の館」不思議ですね。
ここ西都原から北には、高千穂峡があります。高千穂峡には節子と訪問しましたが残念ながら写真は残っていません。近くに天岩戸があります。ここも神話の里です。
西都市から西南に霧島連山があります。霧島連山の最高峰は「韓国岳(からくにだけ)」。なぜ韓国岳?山頂から望めば韓国が見えるからとの説があるがコレはまったくの間違い。友人と登ってみたが全然見えません。
霧島連山の中に「天孫降臨」された場所として高千穂峰があります。ここも登りました。
目を南に転ずると、桜島、開門岳が望めます。

桜島 開門岳

ここにも節子が出没している。
節子は開門岳をえらく気に入っていました。
この山も友人と登りました。標高差900m、ほぼ直登、日本の山は何処もそうですが、火山は直登がおおく、体力を消耗させます。

韓国の建国神話で古代の王・檀君(タングン)が江華島の摩尼山(マニサン)に降臨したという檀君神話があります。
江華島はソウルからバスで2時間ほどです。島の北側をイムジン河が流れています。
橋田紀彦とクルーセーダーズがイムジン河を歌っていましたね。
江華島には、元(モンゴル)が攻め込んだ時、ソウルを明け渡し臨時の都を作ったことで知られます。
摩尼山にも登りました。約400mほどの低山ですが、市民の憩いの場所となっていました。
降臨の場所が首都(ソウル)の近くにあるのは違和感なく受け止められます。
江華島は青銅器時代には人が住み着いていたと思われます。
江華島に支石墓(コインドル)が有ります。
実際に見てみると思ったより小さかった印象でした。

支石墓 約3000年前の遺跡です。

ところが高千穂の峰に何故天孫は降臨したのだろうか?疑問に思います。
ここからは土岐のかってな想像ですが、朝鮮半島(主に百済)から博多に民族移動した人々がさらに南下して、宮崎地方に定住したのではないでしょうか?
民族移動は、モーゼの出エジプトもそうだが、天災飢饉、戦乱から逃れるために行われる。苦しい道中をまとめるために英雄が現れる(モーゼもその一人)。民族移動は一旦落ち着いた先でも、さらに天災、戦乱があれば、何度も行われた。
神武の東征もその一つと思います。
初代天皇の神武は筑紫の日向(ひむか)宮崎県の日向(ひゅうが)から船で北上し、ついで瀬戸内海を東に向かう。紀伊半島を南下して南紀に上陸、河を遡って明日香地方に到達します。奈良県橿原市に神武天皇陵があります。

予断ですが橿原市に弓道場があり、私(土岐)この道場で弓道5段を取得しました。

南九州の魅力をさらに紹介します。
鹿児島県美山(古くは、苗代川)ここは司馬遼太郎が「故郷忘じまくそうろう」と記した場所です(一読の価値があります)。
大変美しい山里です(京都にも美山がありますが美しさでは甲乙つけがたい)。
この地は薩摩焼の窯元があります。今は十五代 沈壽官が美しい焼き物を作っています、(素晴らしい焼き物ですが、大変高価で黒薩摩のぐいのみが4000円もしました。
この地は東郷重徳の故郷でもあります。東郷重徳も秀吉の朝鮮侵略時に、多くの陶工とともに拉致された人の子孫です。
東郷重徳は日米開戦時に外務大臣をつとめ、1945年4月から8月17日(終戦の2日後)まで鈴木貫太郎内閣で外務大臣を務めました。
日米会戦時と終戦時に外務大臣を務めた人です。戦後はA級戦犯として裁かれ服役。1950年に亡くなっている。
本当に趣のある美しい田舎でした。

南九州の魅力 つづき
蒲生(かもお)の大楠。日本一の巨樹です。
樹齢約1,600年、根周り33.5m、目通り幹囲24.22m、高さ約30m

分かりますか。階段の途中に立っている女性。神出鬼没の節子です。

日本一の銀杏の木は青森県北金ガ沢に有ります。
ここも秋に節子と訪問しています。
土地のおじいさんが銀杏の木の側で、黙々と薪割りをしていました。

老いらくの恋 古代編はこれでおしまい。

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