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閑話休題のほうが人気はある…は本編人気あってのこと。

最近連載している関係で起業当初のことを思い出すことが多いわけだが、つくづく幸せっていうのは今に向かい合っている時にあるんだなと思う。

あの頃はあの頃で幸せだったわけで、考えてみれば浪人生の時なんてお金なんてなくても自由なんてなくても幸せだった。

蛇口から水が出るようにコーヒーやお茶が飲める様な国で不幸になるのは本来もはやテクニカルに見えるんだけど、それでも人間は機能として「不安」をもっている。

不幸、というのは不安や痛みの中毒症状であり自家中毒を起こすことも可能なのだ。

じゃあ幸せというのは安定の中毒なのかといえば違う気がする。

幸せこそテクニカルに感じる配合な気がする。


ただ、そこに腹を括るという成分はとても重要だと思う。


しかもそれは最低限のところを意識することだと思う。

私は遺書というものを書いているが、これによって【死ぬ】ということには諦めがついている。

そんなの当たり前じゃん!と思うかもしれないがコレが意外と大きい。

勝負事をする人にしかわからないかもしれないが、【負ける】ということを深いところで諦めないとギャンブルは勝てない。

負けを飲み込むことによって逆に勝率が上がるのだ。

生きているだけで丸儲けと有名な人が言っていたが、それは逆説に死を覚悟している。

ご飯とかもそうだが、白米と味噌汁さえあれば基本生きていけると覚悟したら、生活費そのものが贅沢品になる。いや、白米と味噌汁だけさえも贅沢かもしれない。

つまり、あらゆる活動が実は最低限によって支えられているということなのだが意識化することによって幸せの下地ができたりする。

ある人が「ゴルフで不機嫌になったことがない。なぜならゴルフができるだけで幸せだから。」と言っていたがその人はアマチュアでいうと最高峰に上手い類に入る人だった。

レベルの高さは最低限を引き上げることによる「無理」から来る強欲なストイックという矛盾から引き出している人が多い様に感じるが、はたしてそれは効果的なのだろうか?

いや、幸せなのだろうか?

そんなことを考えている。

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