BFC4 本選Aグループ 感想文
古川桃流 「ファクトリー・リセット」
よくある家庭の風景、と思わせる出だしから、段々と様子がわかってくる流れがとても良くできていて、家や母親についてのちょっとした叙述トリックめいた仕掛けも意外性がある。読みながら、エンターテイナーの丁寧なもてなしを感じた。
ただ一方で、この世界におけるロボットの立場がよくわからなかった。アリスは主人公の持ち物なのに何故ビルの隙間にいるのだろう。それとも自律した存在だから別に暮らしていたのだろうか。アリスと主人公の関係は恐らく親しいものだったのだろうが、意思を持った対等の立場の恋人だったのか、疑似恋愛的なサービスを提供していたのか、それによって母親をデリートする行為の印象が大分変わる。(話の流れ的には前者なのだろうけれど少し曖昧だ)
スマートスピーカーに移植された母親は多分本体にあまり容量がないために人格の忠実な再現とはいかず、だから同じ言葉を繰り返してしまうのだろう。しかし、であるならば、彼女の息子を思いやる言葉はそのまま受け取っていいものなのだろうか。タイムリミットが迫っていたとはいえ、母親が自死を提案するのにあまりにあっさりと乗っているのが気になった。読者にとって、母親ほどに主人公との具体的なやりとりが描かれない分アリスの存在感が強くないため、この選択が微妙に気ぜわしい薄情なものに映ってしまうのだと思う。
SFのようにどうしても背景説明が必要になる物語はこの枚数だと大変だなと感じた。
日比野心労 「小僧の死神」
小学生が原稿用紙六枚を駆け抜けていくだけの物語なのに、とにかく場面設計と段取りがよく考えられていて迫力があった。友達の死と“追ってくる何か”といういかにもブンゲイ的な仕掛けは洋太を走らせるためのいわばマクガフィン(正確な用法ではないが)で、その効果によりかかっていない。本領は、疾走を描写するテクストの躍動感だ。坂の『曲がりくねるカーブ』や、『いつもの通学路から外れた回り道』、橋を駆けやぶをかき分け迂回し不安と緊張を高めながら最後の直線ルートを演出するための下準備(リレー、マラソンの思い出)を進めていく。
『アキレスと亀』で一回溜めを入れ、ここで“追ってくる何か“が明かされ、あとはここまで用意したものをばっと開放しまっすぐの道をゴールまで突っ走る。
とても小説的な工夫のある作品だったと思う。
藤崎ほつま 「柱のきず」
語り手が登場人物(盆に帰ってきた幽霊だが)たちの内面に出入りしながら語るので、読み始めは三人称の神の視点からの記述かとも思えるが、途中で“私”が現れ(「いつも何かに視られている気がする」のは事実だったわけだ)、タイトルが実は語り手の正体であったことが最後に明かされる仕掛けは面白い。捨てられた子猫と雑煮の白い餅、のような印象的な描写も強烈だ。
現世と幽界のはざまにあるような作品世界が魅力的に描かれていたと思う。
ところで、それぞれの“大叔母”“またいとこ”などの呼称は誰を基準に見たものなのだろう。ゆあんだとすると整合しない。ゆあんにとっての大叔母であるゆかりから見た光景から始まるから、以降の関係はゆかりにとっての甥姪またいとこ、なのだろうか。
秋から春を思い起こし、しかし実際の時間は夏であるという、時間や空間を行き来する話だ。「腹立ちまぎれに~」以降「~私は会ったことがない」までが回想シーン、ということになるが、あえてわかりやすい区切りを入れないことで(季節の描写で場面の時節の違いは分かるようになっている)幽霊たちの存在の曖昧さ無時間性が表現されているようだ。だが、ここはもう少しだけ、場面の切り替わりを示唆する何か(改行とか)があっても良かったのではと思う。
細かい点だが、「よすがとゆかりの病んだ母親が過ごしていた場所」のような文章も、句点を挟むなどしないと、よすがが誰であるのか細かいことがわかるのがこの後の場面なので瞬時混乱する。よすがとゆかり「の」母親?というような。関係性が入り組んだ物語なので、ノイズになるような細部は除去した方が良かったのではと。
草野理恵子 「ミジンコをミンジコと言い探すM 」
冒頭の短歌を、変換せずにそのままのイメージとして受け取り、物語として広げて見せた作品、として読んだ。並べられた断片同士の細かい辻褄合わせは行っていないため元歌よりむしろ異様さは強まっていて、余白には常に不穏な気配が漂っている。逆に、後段の登場人物である“私”が詠んだ歌が掲げられているのだと想定して読み直すと、何を思ってこの歌を詠ったのだろう、と歌から見えてくる景色が変わってくるから不思議だ。
“バスガイドってこんな制服?”“そうだね目立ったほうがいい”“助けが来るかも”一文ずつ取り出す分にはなんということのない内容なのだが、並べられることで一行ごとに物語に新しい風景が加わり、予想外な方向に展開していく。計算された配置で言葉が効果的に機能し、使われている語彙のシンプルさが枷になっていない。
“赤茶けた星で私たちは黄緑の制服だった”のような一見無理筋っぽい元歌回収も、ここまでの信用があるので先で何かに繋がっていくのだろうと思え不満は覚えない。
多くの読者が入口で弾かれることなく、読むことに苦労しない(注意深く読まないと戸惑いはするだろうが)、というのも、ブンゲイとしての強みだろう。言葉の少なさを武器にするには多量の言葉で説明を積み重ねるより弾数が少ない分組み合わせに神経を使うはずで、より無駄のない戦い方をしなければならない。勉強になった。
池谷和浩 「現着」
無政府家政婦という謎の仕事について派遣先の清掃業務を行っているらしい主人公。しかしこの“清掃”が何を含意しているのかは必ずしも明瞭ではない。
自由間接話法が仲間二人と同じ時間を共有している感覚を演出し、これはとても上手くいっていて、たかいこが“あたし”、ひくいこが関西弁で話者の混同が起こらないようにしているのを始め、ごちゃごちゃと読みづらくならないよう文章には気遣いがされている。結末で、語り手とひくいこの存在する時間が一年ずれているらしいことが明かされ、読者の知る現実と地続きの世界であったことを知らせる破裂音とともに幕が降りる。
11時31分8秒、とここまではっきり指定しているのは7月にあった現実の事件をほのめかすためだろう。なんらかの政治的な意見の表明を意図しているというよりは、昔の劇にあったように、登場人物がタイタニック号にこれから乗船するところで話を終えるようなもの、と捉えたが、“長門にある港”での仕事にも多分に政治的なニュアンスを感じるので、あくまでポリティカルフィクションとしての雰囲気を滲ませることだけを目的としているのか判断は難しかった。
柔らかな語りに、女性三人の仲良しトーク、だが実は彼女たちのいる状況はかなり怪しげで、という凝った作りの作品だ。直近の事件を暗示することがどう捉えられるかだけで評価が分かれるとしたら勿体無いが、現実の事件をエンターテインメントの要素として扱う態度において、不鮮明な印象があるのも確かだ。
終わりの方の一文、“いまあなた、何年にいるの?”は多分、何が起こっているのか読者の理解を助けるために加えられた台詞かと思うのだけれど、蛇足かも知れない。普通は勘違いや記憶違いをまず疑うのではないだろうか。いきなり時間について訊くと、作中の世界では時間の混線がまま起こるかのような印象を与える。
疑問もある。語り手が清掃に来ているのが“あんなこと”があった一年後の2023年7月だとしたら、彼女たち三人が長門の港で会った“去年の秋”とは2022年の秋ということになる。ひくいこが恐らくはこれから遭遇することになる“あんなこと”の数ヶ月後だ。これはどういうことだろう。2022年7月の時点ではひくいこは他二人のチャンネルを知らなかったはずだ。
タネも仕掛けもある興味深い作品で、どのように評価されるのか楽しみだ。
野本泰地 「タートル・トーク」
語り口から男性の語り手かと思い、付き合いの続いている友人ヨシノも男性というつもりで読み進め、途中でどうもこの口調だとヨシノは女性のようだなと考え直し、その隣に抵抗なく座る語り手も女性なのかと考えた。しかし物語の中に二人の性別をはっきり示すものはなく、どうとも取れるように書かれている。
式場の外にはピラカンサの赤い実があり、肌寒くはあっても問答無用の極寒というわけではないので恐らく季節は秋だ。
家族が飼っていた亀が逃げ出した話と、巨大な亀がイエイツを引用して通り過ぎる夢の話の間に、流れに紛れ込ませるかのようにひょいと、“付き合っていた人に突然振られた”告白が入る。ヨシノが常時飲酒状態になるまで溜め込んでいたのはこれだが、付き合っていた相手についてのエピソード等でその点を掘り下げるということはなく、転倒してからの“なんでや!”まで肝心の部分については何も言わない。ヨシノは決して寡黙ではないが、内心を語るのが得意でないのだろう。本題の周囲をひたすらぐるぐるするだけの友人を見つめる語りにはどこか温かみがあり、ヨシノにとってこの夜が悲しいばかりでは終わらないことを伝えてくれているようだ。