『文書館よりの』
糧を得るための方便として文書館に勤めたが、静寂の中で、文字を読むのが三度の飯よりも好きという同僚たちの走らせるペンとせわしなくめくられる紙の乾いたかさかさという音はまるで虫の脚が擦れ合う音のようで、硬貨がはめこまれたように丸く見開かれた目を文書をひろげた机に落とし口唇に封をして互いに視線を交わすことすらない沈黙に浸かる彼らが、奇妙な仕方でコミュニケーションをとる虫のように思え、退勤時には服の襟から草の匂いが漂うような気がいつもする。
自分の居場所はここではない。
この虫かごから出たいと願いながら、役所の他部署は人員が充足しているとかで、季節ごとに提出する転属願いは端から突っ返されてきた。ならばと職場を移ることを匂わせれば、直属の上司である文書課長は飴玉を与えすぎたこどもの駄々をたしなめるようなほほえみを浮かべながら、わたしがこの仕事に適性を持った代えがたい人材であること、今現在人手が足りていないためわたしの退職は非常に困ること、来期からの巨大プロジェクトが水面下にて進行中でありそこでわたしには指導的立場を担ってほしいこと、などを並べ立て慰留した。何故だろうか。この言葉に納得が出来たことはない。
だが我を通すこともできかねた。視界の端に苔のような黒緑色をした文鎮が映り、小野崎を思い出したからだ。
くさくさしてきて、コーヒーブレイクだと言い置いて配属先である文書室①から地下の資料室に足を延ばせば、わけのわからない極秘任務をおおせつかったためいずこともしれず消えていった同僚たちの影が書棚の間を行き交っているようで、古い打ちっぱなしコンクリ壁だけが理由とは思えぬ冷気に撫でられた背筋が震えた。
受付からペーパークリップでまとめられた紙の束を受け取ると、枚数を数え、親指で押さえながら、これが正しい仕方であることを祈った。
文書室①へ戻る途中、無人の給水室に寄って蛇口をひねると、青白い表情を浮かべた水滴がぽたりぽたりとシンクへと落ちていく。その表面に映し出されているのはわたしの顔だ。 階段を上がり文書室①とは逆方向へと歩を進める。幾つもの部屋と、折り重なった階段と、建物の端と端を結ぶ、病で曲がりくねった背骨のような廊下が延々と続き、やがてかすかに聞こえていたささやき大の声が輪郭をなしてきて、突き当りにある保護室から元同僚小野崎の声が響く。めがさめたー。繰り返すのはその一言だけだ。めがさめたー、おこしてー。半身を乗り出して柵をつかみ、目を見開いては同じ訴えを繰り返す。かつての同僚小野崎は文書の迷路で曲がるべき角ではない暗がりに足を踏み入れてしまった者の一人だ。彼は日頃から職場への不満を漏らしており、匿名で執筆したネット小説の中で文書館を炎上崩壊させ憂さを晴らすなどしていたがやがてそれが嵩じ、手に取るべきではないファイルに誤って目を通し、語るべきではない相手にその内容を漏らした。そう噂されている。いずれ正確な因果関係は分からないが、現在小野崎が不可解な失語状態にあるのはそのせいだと空想する余地は与えられた。保護室と便宜的に呼ばれる隔離された個室が点在しており、そこでは小野崎のように意思疎通が困難な状態の元文書館職員が手厚いケアを受けている、と公式の説明ではされている。
小野崎がそうであったように、文書館から足抜けする際に行きがけの駄賃を確保しようとし、いらぬ手間を増やしたために捕捉され書棚の陰に消えた事務員は少なくない。複雑で意味が分からぬ作業をあやとり状に絡み合ったこの仕事の手取りは苦労に見合ったものとは言えないが、もとよりやりがい搾取的に労働成果をかすめ取られることに腹を立てるような者はこの場所を職場に選んだりしない。彼らが懐に余計な荷物を抱えようとするのは知的好奇心と功名心、そして復讐を求める心からだろうとわたしは理解している。
彼らの多くが喉から漏らす必死の訴えとも歌ともつかぬ声についていえば、歌声のようではあっても明確な歌詞を伴うものではなく、音律のながれをかき分けても詩は掬いだせない。それとも隠されたメッセージが含まれているのだろうか。だが少なくともわたしは、彼らの形のない音楽に勇気づけられてきた。 文書室①に戻ると、紙片を幾枚重ねれば天に至るのか考究するのが我々の仕事だ、と隣席の同僚が真顔で語り始めた。成程と頷きながら、あたまの中では文書で折り紙の館を組み、薄暗いじめついた廊下には肌になめらかな活字の流れる住人を歩かせ、暗闇へと続く先に開かずの部屋を作る。苔のように青ざめた小野崎たちがそこでは声をあげ、うごめいている。
わたしの懐中には文書のぬくもりがあって、それは羽ばたく時を待つ鳥のようだ。