声優と野球選手の結婚について~社会的〇〇〇~

ここ数日、声優と野球選手の結婚が相次いでいる。


 昔(というか今も)、野球選手の結婚相手の定番と言えばアナウンサーであった。これはいくつかの理由が考えられるが、まず挙げられるのは単純に接触の機会が多いことだろう。アナウンサーはスポーツニュースで、球場に取材に行く。すると自然と接点は増える。好みの選手やアナウンサーにアプローチをかけやすいのかもしれない。(女優よりもアナウンサーが多いのはそれで説明がつくかもしれない。)そして声優との結婚も、女性声優のアイドル・マルチタレント化、及びプロ野球とアニメのコラボイベントによる接触機会の増加も一つの要因と考えられる。


スクールカースト的対立論

そして、この一連のニュースについて、一部でこのような感想が挙げられている。

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つまり、単なる一個人同士の結婚という認識を超えて、声優ファンのメイン層であるオタク層と野球部という運動神経に秀で学校内で高い地位を持っていた集団との対比で捉え、オタク層の敗北を表すという認識である。

 この認識は、人によっては被害妄想的、ことを大きく捉え過ぎと感じるかもしれない。しかし、一理あると、個人的には思っている。私自身この感覚を強く(おそらく他人よりも)感じているからである。

 エビデンスを提示しなくとも、体育会系と文化系には、単なる所属する部活の差異以上の様々な特徴の差異があることは皆が肌感覚で分かるのではないか(スクールカースト最上位層には見えていないかもしれないが。)スクールカーストを決定する要素として、主に容姿、コミュニケーション能力、部活、恋愛経験、趣味、ファッションセンスなどが挙げられる。

恋愛市場におけるクラスターレベルでの認識、「社会的NTR」

陰キャ・オタク男性層は基本的に恋愛弱者という特徴を内包している。恋愛弱者は恋愛市場における自らの価値への自己評価が低い。(実際の評価とのズレ、という観点においても正しいケースが多いだろう)自らが入れ込んでいる、接点を持っている(それが例え限定人格的もしくは経済的な関係が絡んだ関係だとしても)女性を、自分とは違う、優れたクラスターの人間に取られる(この取られるという表現自体が主観的であり被害妄想的ではあるが)ことは、単なる一個人としての自分があるプロ野球選手に恋愛市場において負けた、ということを超えて、恋愛弱者層である陰キャクラスターが、恋愛強者層であるスポーツマンクラスターに負けた、さらには奪われたというクラスターレベルの概念で捉えられる。名付けるのであれば一般的な、好きな子を他の人に取られること、及びそれを題材としたコンテンツであるNTR(寝取られ)を「個人的NTR」と捉えた時、今回のような構造を「社会的NTR」とでも呼ぶべきか。僕が彼に負けたのではない、陰キャが陽キャに負けた。そういった認識が、近年さらに、自覚的に広まっているのではないかと個人的に思う。(厳密に、自分の所有物ではない(パートナーを所有と表現する是非については今回はご了承願う)、つまり妻や彼女以外の女性を違う男性に取られる、というシチュエーションはBSS(僕が先に好きだったのに)というジャンルにも分類されることがある。)


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この漫画も典型的なそれの構造である。ただ、主人公が先輩に恋愛で負けたわけではない。そこには冴えない主人公とイケイケの先輩というクラスター要素による分類があり、またそれは自分が先輩側のクラスターに入ることは難しい、変わろうとしたところで変われないという一種の身分固定論のような要素も含んでいる。

 そしてこの構造の強化は、近年の新自由主義的価値観の強化による恋愛格差の拡大、そしてそれを大衆が(特に陰キャ層が)肌感覚で感じていることの表れでないか。昔に比べ、恋愛経験やおしゃれへの関心は、上位層と下位層で更に開いているように見える。性の低年齢化と同時に中年童貞が問題になることはその典型例である。恋愛市場にも新自由主義的な市場原理が導入され、一部の恋愛弱者が不倫や浮気によって複数の異性と関係を持つ中、全く異性と縁がない人がいる、これが恋愛格差の現実である。

そしてさらに、個人主義が教育業界や家庭にまで広がったこと、学校内コミュニティが細分化され他集団交流が乏しくなったことにより(宮台真司氏の言う「島宇宙化」)おしゃれや異性コミュニケーションに秀でた陽キャ層とそうでない陰キャ層の情報共有がなされないこと、陰キャ層の特徴である「低コミュニケーション能力・協調性の低さ・おしゃれ・身だしなみへの関心の低さ」などが個性として尊重されたこと、またさらに家庭内や社会内での結婚圧力の低下により(そんなんじゃ結婚できないよ)、陰キャの恋愛に不利な特徴がそのまま大人まで直らずに放置されるケースがさらに増えたことも恋愛格差の拡大に大きく影響しているだろう。

失恋の意味の違い(この章はほぼ偏見です)

以上の認識を踏まえると、陰キャ(恋愛弱者)の失恋とその他のクラスター(とりわけ陽キャ)の失恋の捉え方には差があるように思うのである。

陽キャも失恋はする。しかし、どこか爽やかである(偏見)。「別の良い人がいるさ」、と周りは言うだろう。そしてそれはたぶんそうなのではないか。今回の失恋はマッチングの不一致に過ぎない、と俯瞰的に見れば捉えられるのではないか。しかし、陰キャに対する「別の良い人がいるさ」は、リアリティを感じにくい。恋愛弱者が恋愛で成功する確率は低いと考えられるからである。そして恋愛における成功体験の少なさがそのフィーリングを加速させる。その絶望感が、陽キャとは違うと思う。恋愛弱者がフラれた時というのは、いささかセカイ系的な世界認識に走るような、そんな単なる恋愛を超えた自我と恋愛の世界、自分という人間のアイデンティティと世界を戦わせているような、ぼくときみに過度にフォーカスを当てたような、そんな感じ、とにかく、陰キャの方が失恋した時のダメージがデカいという勝手な予測(主観的過ぎるのでここらへんで)

陰キャVS陽キャという対立構造の正しい所、間違っている所

偏見はともかくとして、陰キャと陽キャの対立構造を、陰キャ側は特に意識していると思う。そして陰キャより陽キャの方が幸せになりやすいように見えてしまう。その認識は現代社会の一部分を確かに切り取っている。しかし一方で、それが全てではない。それをエビデンスで示していきたいと思う。

もう一度、陰キャ(スクールカースト下位層)と陽キャ(スクールカースト上位層)の差異を見てみよう。主に容姿・運動神経・コミュニケーション能力、そして学力などが挙げられる。

容姿に関しては、容姿が良い方が一部の市場で高い評価を得ることは皆が肌感覚で分かっているし、実証もされている。一方で、それはすべての市場ではない。見た目が悪い人の方が評価が高くなる(見た目が良い人は評価が上がりにくい)業界というのもあるのである。「1979年にコロンビア大学ビジネススクールのヘイルマンとサルワタリが行った調査がそれだ。外見の良さは女性が高給の事務職で雇用される場合には有利に働くが、管理職として雇用される場合には不利になる、と報告されている。」(中野信子 現代ビジネス 女性の容姿への「残酷な心理実験」の結果が示す社会のひずみ https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56931)そのような業界でなら、むしろ自分の能力を発揮できるかもしれない。

運動神経に関しては、近年追い風が吹いているといって良いだろう。運動神経は狭義の身体能力、と捉えた時、企業の採用における身体能力の重要性は低下している。本田由紀の調査によれば、数十年前は採用において重要視することの上位に、「健康であること」や「丈夫でること」が挙げられていた。しかし2000年代ではそういった項目は重視することの上位には挙げられなくなった。(本田由紀 多元化する能力と日本社会ーハイパー・メリトクラシー化のなかで)

労働基準法が守られず、長時間労働が蔓延していた昔は体の丈夫さが今よりも重要だったと考えられる。また、体育会系が就職市場において評価されるのは、運動部で鍛えられた精神性の要素もあるが、その絶対的な体力もあるだろう。そして、働き方改革が進み、以前ほど体力自体は求められなくなったという点では陰キャにとってチャンスといえる。(もちろん健康であることが当たり前になり過ぎて挙げられなくなったという節もある)

コミュニケーション能力に関しては残念ながら、昔よりも更に重要視される傾向にある。単純作業が機械化され、人間には機械的な事務処理能力より創造的な能力やコミュニケーション能力といった「ポスト近代型能力」と呼ばれる数量化しづらく客観的な判断が難しい能力が重要視されるようになっている。これに関しては前述した本田由紀氏の『多元化する能力と日本社会ーハイパー・メリトクラシー化のなかで』を是非読んでいただきたい。

そして最後に学力である。学術的にはスクールカーストと学力は関係ないとされる。そして勉強ができることと陽キャであることは互いに素ではない、背反ではない、両立しうるものである。しかしながら、一部の陰キャの主観においては高学歴陰キャVS低学歴陽キャといった対立構造を見出すケースが見られる。中村淳彦『ルポ 中年童貞』においても高学歴中年童貞を個別に取り上げているし、また原田曜平『ヤンキー経済 消費社会の主役・新保守層の正体』において提唱されている「マイルドヤンキー」低学歴陽キャの一つにクローズアップしたものと言っても良い。

そして、何を隠そう私が一時期そういった対立構造を過度に意識していたのである。偏差値の低い高校に通う人々が、低年齢で恋愛を楽しみ、早く結婚しているのを見て、彼らの方が、特に恋愛関連に関しては幸せなのではないか、と思ってしまったからである。私のような偏見を持っている人も一定数いるのではないか。この考えは、幸福になるのに学力や学歴は必ずしも必要でない、という問題を考える上では一理ある。しかし、現実を表してはいない。

コメント 2020-01-02 000221

(荒川和久 東洋経済オンライン 結婚できない男を阻む「見えない学歴の壁」 https://toyokeizai.net/articles/-/185987)

高卒の方が大卒よりも未婚率が高いことが分かる。

また、東京大学の上田ピーター氏らの研究によれば、男性の性交渉経験率は収入と相関関係があるという。非正規雇用者は正規雇用者に比べて性交渉経験率が低い。(日本成人における異性間性交渉未経験の割合の推移について
出生動向基本調査の分析, 1987 – 2015 年 http://www.m.u-tokyo.ac.jp/news/admin/release_20190408.pdf)

高卒よりも大卒の方が平均年収は高い。

コメント 2020-01-02 001443

(日経スタイル「学歴なんて関係ない」の真実 生涯賃金これだけ違う://style.nikkei.com/article/DGXMZO15805150X20C17A4000000?page=2)

もしあなたが、大卒であれば、高学歴であれば、高卒よりも結婚できる確率・性交渉を経験できる確率は高いはずである。

もちろん、それは高学歴陽キャの話であり、高学歴陰キャは関係ない可能性も高い。しかし、なんとなく高校の様子などから低学歴には陽キャが多く、高学歴には陰キャが多いと思っているのであれば、それは正しいとは言えない。それは変人の東大生ばかりをピックアップする番組などによって作られたイメージかもしれない。少なくとも、恋愛・結婚経験に関しては大卒の方が有利なはずなのである。そして、更に言えば、高学歴陰キャよりもさらに辛い「低学歴陰キャ」が、より多く存在している可能性が高いことを示している。

まとめ

陰キャは辛いが、おそらく高学歴陰キャは低学歴陰キャよりはマシである。陰陽と学歴を過度に対立させたり、ごちゃまぜにするのはおそらく誤謬である。結局のところ、考えるべきはコミュニケーション能力などのポスト近代型能力となってくるだろう。それらについてはまた今度書こうと思う。そして「社会的NTR」はあくまで主観的認識に過ぎず、個人的なことを過度に社会的なことにしてしまう近年のフェミニズムのような側面も持ち合わせているため、あまり過度に表出したりすべきではないと思うが、一方で主観的な感情が存在することは事実である。それとどう向き合っていくかという問題は現実に付きまとう。だからこそ、その感情に関する思考は続けていくべきだと思っている。

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