「ルッキズム」の真の問題の根深さとは 「学歴信仰」と比較して
※この文章は、私が以前大学の授業のレポートとして執筆、提出したものです。
提出が完了したレポートをネットにアップするのって、大丈夫なんですかね?逆コピペ的な() まあほぼ感想文なので、お手柔らかに。
「ルッキズム」の真の問題の根深さとは 「学歴信仰」と比較して
私は、このレポートで、ルッキズムについて扱おうと思う。ルッキズムとは、外見至上主義―身体的に魅力があることを良しとし、身体的に魅力がないことを悪いことだ、という考え方だ。近年、リベラリズム、ポリティカル・コレクトネス、フェミニズム、ダイバーシティ等の観点から、特に女性に対するルッキズムについての批判がなされている。日本でも、大学で開催される「ミスコン」について、ルッキズム批判の文脈から否定的な言及がなされている。いくつかの大学はミスコンを廃止し、法政大学は、ミスコンを行わない理由を発表した。そもそもミスコンを開催しているのは大学本部ではなく、学生の有志団体であるが。
私自身は、男性であるが、特別見た目が良いわけではない。稀に見た目を褒められたことは何度かあるが、異性からの人気は基本的に皆無であるし、基本的に見た目の良さによる恩恵というものは人生でほぼ受けていない。なので、ルッキズムの恩恵に預かってきたわけではない。しかし、私は前述したような、ルッキズム批判に一定の理解は示すものの、ルッキズムを無くすべきだ、という考えは持っていない。というか、ルッキズムを無くすことは原則不可能と考えているし、無理やり実現したとしても、誰のためにもならないと考えている。なぜそう考えるに至ったかについて論じる。
まず、大前提として、ルッキズムは、身体的魅力があることを良し、としているが、ではその身体的魅力とはなんなのか、美男美女とはいったいどういう人のことを指すのか、といったことは示されていない。これは、時代や地域、文化などによって異なるものだと言ってよい。しかし、安易な価値相対論に走るのは早計だ。体型などに関する好みが、各文化圏や流行などによって変わることが多々ある一方で、国を超えて世界的に美人と評価される人もいる。ある研究によれば、左右対称であること、は美形がどうかを測る上で重要な指標になっているという。美の基準は、絶対的とは言えないが、一方で、ある程度、前提としての統一基準のようなものが存在している可能性が高いというのもまた事実である。今回は、いったん美の定義については触れずに話を進める。
そもそも、ルッキズムは、冒頭の表記の仕方からみると、規範のようなものに見える。もちろん、規範的な部分もないとは言えないが、ルッキズムの本質は規範ではないと私は考える。ルッキズムとは、基本的に結果である。どういうことなのか、具体的に説明すると、もし仮にルッキズムが規範だったとする。それは具体的にはどういう状況かと言えば、身体的魅力があることが正義であり、身体的魅力がないことが悪であるという規範が、存在した場合、世の中はどうなるだろうか。全員が美形になることを強制される社会になるだろう。美形になるためにやることはなんでもやる。それを全員がやるので、元々美形な人でもうかうかはしていられない。競争が過激化する。こういった状況になっているだろうか。極端な話を言えば、もしそんな世の中だったら、現代は、一億総整形社会になっているのではないか。整形手術は万能ではないし、限界がある。それにお金もかかる。だとしても、美が至上命題であれば、少なくともお金を持っている親は、子どもに整形のための資金を投入し、子どもの社会的地位を上げようと全力を尽くすのではないだろうか。社会としても、整形をしていない人は、社会に対する義務を果たしていないだとか、子どもを整形させてあげられない親は親失格だ、などと言われていてもおかしくない。しかし現実はそうはなっていない。整形大国韓国では、親が成人祝いとして子に整形手術をプレゼントするなんて話を聞いたことあるが、そんな韓国でも、整形件数は、人口1000人あたり13.5人。世界一位であるが、それでもほとんどの人は整形していないことになる。国民総整形社会は全く訪れていない。
今のは例が極端すぎたかもしれない。しかし、別の例で考えてみよう。それは「勉強」である。具体的には学校の勉強を指し、学歴などに繋がる、勉強である。現代には、完全ではないにせよ、一定の学歴信仰がある。もちろんのことだが、人間は、本来、勉強が出来なきゃ生きている価値がないだとか、そんなことは決してない。しかし、近代の先進国ではしばしば、受験の過激化が起こっている。韓国や中国は特に過激だ。シンガポールも過激である。東アジアは全体的に激しい傾向にあり、日本も世界的に見ればそうであるが、前述の二国よりは緩い方だと言われている。これは、一概に国民の気質などによってだけ決まるのではなく、産業構造など、社会情勢の影響も大きい。頑張らなくても仕事に困らないような労働市場であれば、過激化はおきにくい。椅子が少ないからこそ、競争が起こる。勉強と学歴が人生を決めるからこそ、親は子どもに莫大な教育投資をし、はっぱをかける。そして時には、勉強できない、いい大学にいけないやつは、ダメだ。といった人格否定が行われる場合もあるだろう。
ルッキズムもそういう面がないわけではない。例えば、中国では伝統的に、足が短い女性の方が魅力的だからという理由で、少女の足をぐるぐる巻きにして足の成長を止める、という風習が行われてきた。他にも、身体的魅力や性的価値に偏重した悪しき風習というのは各地であったように思える。しかし、少なくとも今、見た目が悪いと言うだけで、非人扱いされることはないし、そういった見た目の悪い人に努力を強要することはない。基本的に見た目を努力で改善することは限界がある、ということをほとんどの人は分かっている。
では、ルッキズムとは規範ではなく、結果であるということは、どういうことかと言えば、それは、つまり、道徳的強制ではなく、主体的選択、選好の結果現れる、相対的な上下関係のことである。典型的な例は就職活動だ。昔は、募集欄に、容姿端麗な方と書いてあったり、スチュワーデスは身長が何cm以上ないと応募できないといったものがあったが、もっとも、スチュワーデスでの規定は、機内業務に支障をきたす可能性があるためであり、ルッキズムが目的ではない。ほとんどの企業において、採用条件に容姿があることを掲げる企業はない。大々的に、我々は見た目が良い人が欲しいです、と宣言する企業もない。実際、企業としても、見た目が良い人よりは、仕事ができる人が欲しいと思っているはずだ。では、外見は関係ないのだろうか。その答えはノーである。これは、悪いことでもなんでもないのだが、全く同じ能力の人がいて、片方は顔が良く、片方は顔が悪かったら、おそらく、ほとんどの人が顔が良い方を選ぶだろう。そこに、顔が悪い人への差別心などが存在しているわけではない。美味しい料理と不味い料理があって、おいしい料理を食べる人に、差別心が存在しているわけではないのと一緒だ。そして基本的に、あえて不味い料理を取る人もいない。ルッキズムによる格差のほとんどは、こういった、ポジティブな選好の結果として、現れているものだと言うのが私の考えだ。だから規範を直したりだとか、否定したりだとかすることでは解決しないと思うのである。誰もが人を見た目で判断することが良くないことであることは既に知っている。だが、実際選ぶときになると、その影響から逃れることはできない。そこにルッキズムの根深さがある。
さらに言えば、見た目は一つの能力だと言っても良い。就活では、印象が重視されるが、見た目が良い人は、それだけで相手に良い印象を与えることができる。さらに言えば、例えば営業職などであれば、見た面が良く、良い印象を与えられることは、売り上げに繋がる可能性がある。つまり、法律の知識より、数学の力より、見た目こそが、営業職にとってよっぽど必要な能力かもしれない。一般企業は私人であり公ではない。どんな基準で人を選ぼうと、咎められる筋合いは基本的にない。見た目が良い人間が、最も売り上げを最善にする可能性があるなら、そういった人を採用するのは当然であろう。
そもそも、なぜ見た目は能力だと認めてもらいにくいのだろう。元々数学が得意な人がその能力を活かして数学者として活躍することと、元々運動神経が高い人が、それを活かしてスポーツ選手として活躍することと、元々見た目の良い人が、その美貌を活かしてモデルや芸能人として活躍することは一体何が違うのだろうか。ミスコン批判には、この視点が欠けている。見た目で判断することは悪としていながら、その大学自体は、学力によって、入学者を選別している。学力による区別は良いのだろうか。そもそも人を区別すること自体が良いのか悪いのかという議論もある。もっとも、大学には定員があり、それ以上の応募者がくれば何らかの形で選別をする必要があるため、それ自体を批判するつもりはない。しかし、真に平等ということを考えれば、抽選で決めた方がよっぽど平等だろう。しかし大学はそれをしない。見た目は努力の余地が小さいが、学力は大きいというかもしれない。しかし、教育社会学においては、文化資本といった概念が提唱されているし、親の学歴と子の学歴に相関があることも指摘されている。外見と同様に、生まれつきの才能によって、恩恵を受けている人間というのは、学力優秀者にも存在している。彼らのことは許せるのに、ただ見た目が良いだけの人が成功したり、評価されることは許せないのはなぜだろうか。これについてはさらに深く考える必要がある。
ある人は、勉強ができる人は社会の役に立つが、見た目がいいことは、何の役にも立たない、と言うかもしれない。この指摘は全く持って的外れである。勉強ができる人全員が、社会に直接的に貢献する仕事をしているとは限らない。ただ自分の好きな研究をしているだけの人もいるだろう。しかし人々はそういった人に対して、そこまで否定的な目を向けることはない。そもそも、社会への貢献度で価値を測る価値観もどうなのかと思うが。官僚や、実学の研究者が偉く、良く分からない哲学や、虫の研究をしている人は、貢献度が低い、とは一概には言えないだろう。まあ、最も、貢献度においても、相対論を持ち出すと、見た目が良いだけの人も内包してしまうので、貢献度の差自体があることは認めよう。
では、見た目の良い人が提供している価値というのはそんなに低いものなのか。私は全くそうは思わない。むしろ、とても大きいものだと感じている。アイドルや芸能人に対して、どれだけのお金が動いているだろうか。大量のファンがいて、彼らの中には、そのアイドルのライブを生きがいに生きている人もいる。またアイドルだけに限らず、キャバクラ嬢やホストといった水商売の存在も大きい。もちろん彼らは見た目だけではなく、話術もすごいのだが、美男美女とお話ができる、ということに価値を見出し、お金を払う人がたくさんいて、中にはそれを生きがいにし過ぎてお金に困ってしまう人もいるくらいだ。美形の人の存在というのは、それだけで感情労働の典型的な例と言っても良いのではないか。美形の人は、人を癒すことができる。そのパワーはとても大きい。癒すことは、美形でない人にもできるだろう。しかしいっぽうで、やはり彼らにしかできないことというのもあるように思う。私も、すてきな女性と関わることができただけで、疲れがふっとぶような、そんな経験をしたことがある。そして、これがルッキズムのもう一つの根深さなのである。
つまり、美男美女の持つパワーや良さというものを、皆分かっている、さらに言えば、見た目が良くない人々も分かっているからこそ、ルッキズムを否定できないのではないか、ということだ。例えば、見た目の冴えないおじさん、ルッキズムの恩恵を全く受けておらず、独身。しかし、趣味はアイドルのおっかけ、可愛いアイドルを見ることが生きがい。男女逆の場合においても同様だ。こういった人々は一定数いる。つまり、ルッキズムの恩恵を受けていない人ですら、ルッキズムの文脈に飲み込まれてしまっているのである。見た目が持つパワーを自分は享受者として知ってしまっているからこそ、ルッキズムを否定できないのである。見た目が良いって、それだけで価値のあることだからなあ、と、見た目が悪い人も納得してしまっているのである。
ここでまだ勉強と比べている。「反知性主義」という言葉は、厳密には誤用だが、いわゆる、勉強なんて何の役に立つんだ、東大生は使えない、頭のいい奴には心がない、勉強してる奴はダサい、といった価値観を持った人々は、世界各地に一定数いるだろう。カウンターカルチャーや、日本で言えば、マイルドヤンキーのような界隈もこれに当てはまるかもしれない。そして、こういった考えは世論の一部を形成しているといっても過言ではない。
彼らは自分が高学歴でなく、また勉強の分野で活躍できなかったからこそ、こういったことを主張している可能性は高い。ポジショントークとして、自らを正当化したり、優位性を保とうとしているのかもしれない。
私が思うことは、もし、本当にルッキズムを無くしたいのであれば、見た目の悪い人たちで結束して、この反知性主義的な集団と同じようなことをやれば、あっという間に世論の一角を占めることができると思うのだ。なぜなら、見た目が良い人というのは、そう数がいるわけではない。そういう意味では、美男美女よりよっぽどマジョリティである。そんな人々が全員結束すれば、美男美女が得をしない社会を創りたいという民意くらいあっという間に形成されるはずだ。
しかし現実はそうはならない。それは先ほど指摘した通り、見た目が悪い人さえも、美男美女の魅力に魅了されてしまっているからだ。だから、自分が得しないからと言って、それを否定できない。美男美女のパワーを肯定する方向に走ってしまう。それだけ、美男美女は素晴らしいということでもある。
ルッキズムの根深さとは、皆が結局、美男美女に、本能的に惹かれてしまうことが、全ての元凶であり、本能であるが故に、否定や矯正がしにくいのである。自然主義的誤謬に陥りたくはないが、本能に抗うことはできない。無理矢理抗っても、かえって幸福が減るかもしれない。この構造が解決されない限り、ルッキズムがなくなることはないと私は思う。建前だけで取り繕っても、結局美男美女も、そしてそうでない人さえも美男美女を心の中で求めてしまっているからだ。そこが、ルッキズムの根深さなのである。これを否定することはなかなか難しい。私は現状、これを解決する理屈を思いつくことができない。
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