両親の“言わない“美学
結婚が決まり、両家顔合わせをしたときの、父の最後の言葉が忘れられない。
「何の取り柄もない娘ですが、よろしくお願いします」
この場面では、たぶん常套句である、“ふつつかな娘ですが“ と挨拶するんだろうなと思っていた私は、ずっこけた。
ちなみに、“ふつつかな娘“の意味は、色々あるようですが、簡単にまとめると、「まだ不十分なところが多いですが」といった意味らしい。
不十分ではあっても、なんらか取り柄のある“ふつつかな娘”の方が、“何の取り柄もない娘”よりも、だいぶマシではないか。
顔合わせの最中も、どうでも良い雑談ばかりして、なごやかではあったが、想像していたのと、なんか違う。
私としては、人生の節目のときぐらい、恥ずかしくなるほど、娘自慢の止まらない両親の姿を見てみたかったのだった。
そう、両親は、昔から“言わない“人たちだった。
*
私の幼い頃、親は、しばしば、友人夫婦子連れで集まり、バーベキューや旅行をしていた。
だいたいの親は、自分の子供の話を面白おかしく繰り広げ、それを聞いた他の親たちは、そのエピソードを肯定的に捉えた後、「ウチの子の場合は…」と、自分の子供の話をはじめる。
しかし、私の両親は、その場を盛り上げはするものの、他の親のように、私のエピソードをちっとも紹介してくれないのである。
大人たちの話のスポットライトを浴びた子供たちは、楽しげに大人たちとコミュニケーションを取り、ちょっとした人気者になっていて、それが羨ましかった。
子供心に、私だって、同じくらい面白いエピソードあるのになあ…と、ずっとモヤモヤしていた。
時々、母に、「こんなことあったよねー?」と、ネタ振りをしたこともあったが、母は取り合わなかった。
「そんなこと外で言わなくていいのよ。」と母。
*
私と夫の結婚披露宴の準備をしていた時のこと。
新婦が、両親への手紙を読み上げるコーナーがあったので、文章を考えていたのだが、私は、どう書いてよいのか混乱した。
この手紙は、両親にむけて書きつつも、同時に披露宴会場にいる他者にも聞いてもらう手紙なのだ。
これは、よく考えたら、結構特殊な手紙だ。
何を、どのように、どこまで書くか?すごく新婦のセンスが試されるコンテンツだと感じた。
人生の貴重な場面、これまでの両親への感謝の気持ちや思いを、披露宴会場の方々にも聞いていただく以上は、伝わる文章を心がけたい。
しかし、長年別居してきた義理両親や、温かく平和な家庭に焦がれて育った夫の気持ちを知っているので余計に、幸せな思い出話オンパレードな手紙は避けたい気もした。
夜中に書いたラブレターのようにならないよう、数日かけて考えて、私達家族の特徴が伝わりやすい要素のある、また、ちょっと笑ってしまうようなエピソードを盛り込んで、手紙を完成させた。
本当は、もっと感動的なエピソードはたくさんあったけど、それは書かなかった。
それは、両親にだけ伝えれば良いことと考えた。
私は、両親だけでなく披露宴に参加した人たちが皆、笑顔になれる手紙としたいと思ったのだった。
そのとき、
ああ、両親も同じだったのかな?と気づいた。
必要以上に“言わない”のは、他者への気遣い。
どうしてもっと周りの人に、私の話をしてくれないんだろう?とモヤモヤしてきた、長年の両親への不満が変換した瞬間。
もしかして、
両家顔合わせの時、娘自慢を一切しなかったのは、
終始自分たちの子育てへの後悔や懺悔のような言葉を発して恐縮していた義理の父に対して、その気持ちを和らげるための、父なりの気遣いだったのかもしれない。
両親なりの“言わない“美学だったのか。
幼い私には、その真髄を理解できず、不満を抱いてしまったが、ようやく理解が追いついた。
まあ、ちょっと、“何の取り柄もない”は、下げすぎとは思いますけど。(笑)
最後までお読みいただきありがとうございました。それでは、また。
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