ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(四)

第四章 ヤクザの親分もカッコイイが、テキヤも面白いゼ

 語源の次にテキヤとヤクザの生まれた経緯とその違いについても述べたいと思います。

江戸時代後期になると無宿人が多く出てきます。当時、傷害や盗みなど非合法な行為を犯すと「縁座」という罪があり類が身内、家族にも及びます。このため家を勘当され、村にいられなくなった者や貧困から夜逃げ同然に村を抜け出た者が無宿人です。これら無宿人は、街道で荷物を運ぶ雲助になったり、都市に出て人足になりました。

また、一部は街道を渡り歩き賭博を生業とする者もいました。これは後世、股旅者として沓掛時次郎、木枯らし紋次郎などの任侠の世界として描かれるようになります。当時、遊興の少なかった時代では賭博は手近な娯楽で、大名屋敷や宿場の人足部屋ではよく賭場が開かれ普通の町人、農民も出入りしていました。特に寺社の祭礼の際に行われる賭場は、大きな利権がありそれをめぐり、吉良の仁吉で有名な荒神山の血闘など、抗争が頻繁に起きました。当時、寺社は寺社奉行の管轄で御法度の賭博でも治外法権なところがあり、おおっぴらに開催できたようです。秘仏を開帳するように「賭場を開帳」といったり、「寺銭」という言葉も賭博と寺社の関係の深さを今に語っています。

この寺社の祭礼で賭場を仕切る胴元や無宿人に職を斡旋していた口入屋の中から、幡随院長兵衛、国定忠次、清水次郎長、大前田英五郎などが頭角を現し後年、講談や浪花節のヒーローとなるヤクザの親分の原型が生まれました。近年では高倉健の「網走番外地」、菅原文太の「仁義なき戦い」、最近でも高島礼子の「極道の妻たち」シリーズの映画が作成されており、日本人はこの手の任侠の世界がよほど好きと見えます。

そのようなヤクザ映画で、旅に出た博徒が初対面の挨拶する時、「仁義」を切るところを見たことがあると思います。仁義とは、体を斜めに構え手のひらを見せて、相手に危害を加えないことを示しながら履歴書を口頭で述べたものと考えればよいでしょう。その切り方の上手、下手で一宿一飯の恩義を受けられることもありました。ヤクザの親分は職を斡旋する口入屋を兼ねていましたから、そのツテを期待できました。立場を変えると人足にでもなる気がない者は、早く面倒を起こさず出て行ってもらいたい、分かりやすくいうと面談の結果、早く追っ払うための一宿一飯でもありました。一方、テキヤも従来からいた香具師に無宿人などを加え数を増しました。出身は同じ様でもテキヤは自立した商人ですから食事や宿泊は自前で行い逗留している間、一宿一飯というような恩義の風習はありませんでした。

このような違いはありますが、アイキツと仁義はよく似ています。他にも相続襲名での固め盃の儀礼、作法で親分子分、兄弟弟子の堅いタテの絆を作るところは博徒とテキヤは似ています。社会的に卑しい両者にとって親分は相互扶助的慈悲の心で職を保証し、旅先でも身元引受人になってくれるわけで、親分だからこそ黒をも白、一生を懸けて恩義に応える必要があります。このため親分からの勘当の廻状を廻されない限りその元を離れられませんでした。

組織はこのように固定しており賭博系、テキヤ系に大別できますが、個々人は、他の親分に謝礼することで、一時的に寄宿することは許されていました。そのような背景のもと、身分制度の厳しい社会の底辺で近い身分、共に祭礼による賭場と露天業のため旅を続ける両者には互いの交流、つまりテキヤが博徒になったり、博徒がテキヤになるケースもあったようです。テキヤの中には隠語でガセネタと称する粗悪品を売ったり、ハッタリバイといううそや詐欺的啖呵で売り抜いて次の場所に移動してしまう者もいたことも事実です。

しかし、テキヤの基本は商売人、旅芸人でありまじめに修行を積み後世に名を残した者もありました。祭る神もテキヤは神農、ヤクザは天照大神です。テキヤとヤクザ、それは今日では同じように見えますが、元々違うものであったといえます。

第五章へ続く

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