5. 江戸時代その二、こんなことしてた!大道芸人

乞胸が車善七(個人名でなく代々の世襲の家名)の采配ということは、士農工商の4階級の更に下、「非人」ということになります。しかし、実態は軽業が得意の町人(工商)が町人の身分のまま乞胸になっていたようです。落語や講談、歌舞伎は全て乞胸から生まれ、寄席、芝居へ発展していったものです。乞胸こそ日本の歌舞音曲の原点、先行芸能と言えるでしょう。しかし、歌舞音曲により関心を集め、喜捨(金を乞い、投げ銭・放り銭を拾い集める行為)は非生産的(米や物を作らない)で卑しい行為と見られました。このことから「河原乞食」という侮蔑的別称も生れ、全部の「芸人」というものが社会的に低く見られる状態が長く続きます。
乞胸は、十二種に分類され辻講釈(太平記読み)、辻説教、辻勧進など舌耕芸(ぜっこうげい:田を耕す如く、舌を耕し生計を得る芸)が主役で、今、はやりのジャグリングは綾とり、ディアボロは輪鼓として辻放下の分類に入ります。辻放下には他に手妻、軽業、大神楽も含まれまれ、当時、パフォーマンス系大道芸は、それだけ未発達、少数派だったと思われます。
慶安年間(1650年代)、非人頭へ支払う鑑札料は、18文/月、天保12年(1841年)の登録数は4029人とあります。この数字から実態はよくわかりませんが、多くの者が、親分肌の人間を中心に上下関係を作り、技芸の修得をしながら閉じたコミュニティで足りないものを助け合う暮らしでいたようです。このような共同生活では、色々トラブルがおこります。その対策としての掟(おきて)として、年長者は慈愛と庇護、年少者の礼節と忠誠、分かりやすく言えば、親分と客分、子分の上下の絶対化、更に①バヒルナ②タレコムナ③バシタトルナです。①のバ(売り)ヒ(カネ)を誤魔化し上納金を掠めるな。②は外部に内通するな③仲間のバシタ(女)と密通するな。このコミュニティは非人頭へ上納が廃止される明治4年まで続き、その後大道芸人は徐々に、テキヤの組制度に組込まれてゆきます。#昭和 #昔の大道芸 #なつかしい伝統芸  
#絶滅危機の芸

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