エピソード7
大分県 飯田高原
grow 後藤文生
あの日からがあっという間で
出会って衝撃を受けた 19 歳
初対面の 1 時間ほどの会話から
言われたことのない厳しい言葉の中に今までこんなこという大人はいないなと思いながら
「今うちも 4 人教えてるから雇う余裕がない」と言われつつも
同郷という共通点がよかったのか
話の最後に「趣味やこれで食べて行く気のない人には教えない
でも本気でやりたいなら明日から来なさい」
このご縁から木の世界へ入って 17年という年月が経ちました。
最初の壁は考え方
「昨日のいい。は、今日はダメ」
ということはすぐには理解できなかった
これで作ればいいと渡された見本や型で
初めのうちはある程度の数を作ってはチェックしてもらう中で
早いときにはその見本や型を数時間で削りなおして修正したり
昨日まではこれでいいと言われていたことが今日はまたダメ出し
毎度言うことが違うことが理解できないと、その頃は浅はかにも感じつつ。
また、ここまで使う人は見ていないだろうとか、もっとその修正時間を
一度決めた型で沢山作ることに使ったほうがいいのになと思ったり
これまでの生活ではなかった感覚に戸惑う日々
徐々に物作りにおいて常に自問を繰り返し作り変えていく大切さは
今は気になれば変えずにいられない、その考え方はいつの間にか自分も当たり前となってしまいました。
誰しも一度は自分の作品にサインやマークを入れたいと思ったことがあると思います。
そんな疑問を先生はなぜ作品に自分のサインを入れないのですか?と聞いたとき
「名前じゃなくてモノで見てもらわないとダメ。見た人、使った人がこれは誰の作ったモノか 探してもらえるようなモノを作れるようにならないと。いいモノは残る。」
この時は次の言葉がみつからず、19 歳の自分には響きました。
独立後たまに名を入れたらとも言われますが、未だその言葉が響いて入れられない自分がいます。
今回、書く中で思い出すエピソードはまだまだ沢山ありますが
短い言葉で思い出すのは
・20 歳になった時には、世の中に不満があれば選挙に行け
・他人の羨ましい境遇はその人の持って生まれた才能だと思って 自分に出来る努力をしなさい
・独立するときは、男は 25 歳になるまでどんなに頑張っても 信用は得られないからせめてそれを超えるまではあきらめず続けなさい
・少しでも信用を得たいと思うなら、毎日片付けをして工房はいつも綺麗にしていなさいなど
そして
食事に関わる道具を作っているから料理もということで
一週間交代の食事当番
慣れるまでここが一番の難関だった気がします
それまで片付けはしてもまともに料理を作ったことがなく
お米すらほとんど研いでこなかった自分も作ることに
出来ないは通じない
当時売り場を任されていた留守さんや、幸野さんにこっそり手伝ってもらったり
先輩方のレシピ、献立を使わせてもらいながら
なんとか凌いだあの思い出したくもない一週間でしたが
それから数年後、子育てする中でも作ってあげられたり
あの食事当番がなければ今でも出来なかったと思うと
なんでも経験することはいいことだなと時間が経って実感し
きっかけはいろいろあれ、初めから無理と決めずにすることなど
振り返ると、未熟な自分へ技術以上に
人として物事の捉え方、考え方を教えてくれていたことを
この先生と私を書きながら改めて感じています。
最後に送迎エピソードを書かずにはいられないので一つ
移動時間のないときは狭い助手席で着替えをすることがある先生
たまたま出張日のその日は会合後で高速バスに間に合わず
急遽福岡空港まで送りに行くことに
こちらも時間を考えると余裕がなかったので
高速に乗って、アクセル全開で走行中
しばらくして急に着替え始める先生
えっ、高速でも!と思いながら
そしてトンネルに入った次の瞬間
けたたましいエンジン音に
着替え中に手か膝がたまたまシフトレバーにあたり、N に入ったみたいで
何が起きたのか、一瞬、あっ、終わったと思いました。
さすがに着替え中の先生もあの時は焦って笑ってました
今でもあのあたりを通ると思い出してしまいます。
まだまだ学びの必要な自分ですが
飯田高原より日々繋げていきたいと思います。
ありがとうございました。