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高野山にて

奧之院を出て御廟橋を渡ると全ての目的を終えてほっとした。
裏参道を奥の院前のバス停を目指す。その途中にはいろいろな企業関係の慰霊碑、供養塔が並んでいて見物にはいいのだが流していく。ただ親鸞聖人の墓所だけは見落とさないようにしよう、そこまで上がったことはないし今回も金剛峯寺での体験を入れたために時間が押していて上がれない。そんなことを考えながら進んでいくとちょうどその聖人の墓所の上がり口であれっあの人に似てる!よく似た人がいるもんだ世の中これだけいれば似た人はいるもんだよな!二人連れのその人はすっとそのまま聖人の墓所の方へと向かっていった。二人の行く先を見極めようとして視線をやった次の瞬間びびった。似た人でなく紛れもなく本人だった。写真を撮るのが趣味の彼女のカメラを構えた姿勢は凛として見間違うことはない。そのカメラを構えた姿を見ただけで良かったと思った。
彼女との接点はgoogle+(SNS)のストリームのみで彼女のストリームが消えてやがて3ヶ月、消える直前くらいにオフ会に双方2度参加していた。たぶんgmailを使うためにアカウントを完全に消去することなくSNS上のプロフィールは消去された状態になっている。消えたことを自分が認識したときやっぱりと思った。なんか投稿がしんどそうだったのだ。止めて自由になるならそれでいいと思う。自分も最近SNS上の繋がりが縛られているように感じてきていて、投稿するために何かをしているような、その場の空気を乱さないような記事にしているような窮屈さを感じていたのもある。
びびったのは高野山に上がるために始発の電車に乗り此処にくるまでに彼女のことを考えていたからで、あの後見ることはないけど元気だったらいいな、彼女の撮影対象は風景や花も多いけど圧倒的に寺院が多くて高野山もあった、だからその本人に高野山で逢うなんてありえない、本名、携帯、メアド、勤務先など何も知らないのに朝から頭の中に住んでた人に双方にとって非日常の場所ですれ違うなんてこれはいったいどういうことなんだろう。同行の方と奧之院の方へ進んでいく背中を見ながら、声を掛ける意味などないし元気そうな姿を見るだけで良かった。
これって何かのサイン(徴候)に思えてきた。今回の高野山はいろんな伏線がある。
(続く)

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