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望みの行きつくところ

今日夕方、瞑想専科の7回目だった。市内某所の地下室に出向き座るのだ。もっとも今日は先週の明石海峡大橋海上ウォークで足を傷め無理があったけど。敢えて海上ウォークの件に触れたかと言えばそれによって自分の瞑想の方向がよりはっきりとしたからである。
この2回は、夢や願望をもうそれ以上は伸ばせないところまで拡張し、一点集中(没入・夢中・熱中)し、自分自身の理想的な状態まで深めるという展開だった。


前々回の後姫路城まで100キロ歩くイベントのサポートをした後で前回の瞑想だった。夢をどんどん盛って行けと言われたのに何故だか落ち着いた静寂の場所にいて満ち足りてる自分になんのことだと考えた。それと知らずに自分は夢が具現化するその瞬間に立ってたのではないかと考えにいたる。ちなみに100キロ実際に歩くとまるで自己啓発セミナーでも行ったのですかと妙にテンション上がってる人達がFacebookにコメントし合うのだけど自分は妙に冷めていてそこにいるのがいたたまれなくなるのだが、瞑想の行きついたままを言えばただ目の前にいる人が成長していく過程を手助けするだけで濃密な深い繋がりなど求めていない自分がそこにいた。そこに居合わせたオッさんである自分がどこから来て何をして暮らしているかも分からない老若男女に名も告げずに、100キロ歩きたいとコミットしたその思いをかなえることにコミットし、自分が歩いた時のことやこれまでマッサージやテーピング、応急処置またはイベントの運営など経験し学んだ全てを対峙した一瞬に投入する。その一瞬、一瞬の振る舞いのまとまりを感じつつ、100キロを歩き切った人々の喜びに共感し、体の痛みに同情し、いろんなリスペクトに価する行動や人に喜びを覚える。ただそれだけなのだ。饒舌に語られることより語られないこと饒舌の陰に隠される本音に気づくこと。むしろ何も語らず遠くで誇らしげな笑顔を観ていることで充分なのだ。

さて、今日の回はその先の自分自身の理想的な状態について考えを深めるというのだが、そもそも前回の到達点は勘違いではないのかたまたまなのに固執しているのではないかと疑うところから入った。

常浄楽我・・・永遠で純粋で楽しくて自分自身である瞑想の行きつくところなのだそうだが。前回と今回の間にあの橋を歩いて、しっかり自分の足で立ち歩くことは大事だけど足元を徹底して見ては動けなくなる、見るべきは向こうべき遙か遠くの場所なのだと。それからすれば目の前にある望ましくない状態や普通に考えてそれでは上手く行くはずがない状態、自分の言葉を誰も聞かずただ苦しく感じ時に何をやってるのか分からなくなり自分を見失うなどは正に自分の立っている場所に拘り行きつく先をなくした状態にしか思えなくなった。

もう一度戻ろう、自分の望みが収斂することとは、やはり目の前にいる誰かが輝き、目標に苦しみながら到達する姿を直接間接に時に一緒に関わることが好きだ。ただそれだけでいい。それと自分自身の理想的な状態とはなんだ?言葉にすれば誰かのためにあなたの為にと独りよがりもしくは自己中な展開になる危険性を含んでる。だから濃密な関係になることを控えてるし、誰に対しても同じ内容であることに気を付けている。それを維持するために自分が健康であること、常に技術を向上させ、情報を集めたりその人が口にしない本当の叫びを見抜くためにコミュニケーションを取っていくこと・・・理想的な状態ちゃうの?それらのために適切な収入にすべく稼ぐ。

でも、清廉潔白で純粋なことを目指してるのでなく泥臭く時にドロドロしたものであっても受け入れるために、浄い生き方をするつもりはないけど。


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