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T氏に子供はいない。

T氏に子供はいない。生まれて60年余り、誰とも恋愛をする経験をしてこなかった。

そういうのは一部の自然派(ナチュラリスト)のすることであり、疎まれる存在だ。

今の時代、子供といえば人工子宮で作るものである。精子と卵子を提供し、無作為に選ばれたものが人工子宮で育てられ子供となる。

国が新たに生み出した少子化対策だ。希望するなら自分の遺伝子を持つ子供が誕生したことも知らせてくれる。

T氏は今日、人工子宮への精子提供へ赴いていた。定期した精子の保存期間は一年であり、いつ子供ができるか楽しみにしながら毎年提供している。

市役所の人口課の受け付けに赴き、手慣れた手順で精子を提供して後は待つだけだ。

だがT氏は少し焦っていた。というのも提供は今回で65回目。精子提供は65歳が条件であり、T氏にとってこれが最後のチャンスなのだ。

「人工子宮の廃止を!子供は人間が産もう!」

駅前を通ると自然派団体が人工子宮に対する抗議をしていた。それを鼻で笑い通り過ぎる。人工子宮のおかげで辛いだけの妊娠と出産をする必要がなくなり女性も男性と同じく働くことができるようになった。それだというのに人工子宮に抗議をするのは女性だ。いったい、彼女たちはどうしたいのだろう。

しかし国はこうした自然派のために自然分娩は可能にしている。もっとも、出産費用はとても高いがそれでもこちらを選ぶ奇特な女性は多い。

どちらにせよ、人工子宮に任せた方が男女共に楽なのに頑固なものだ。セックスなど、獣がやることであり人間がすることじゃない。T氏は呆れながら帰宅し、床に付いた。

翌朝。T氏はいつものように起きる。しかし仕事は先月に定年退職しており、これからは生まれてくる子供を楽しみにする老後といったところだろう。

いつものようにトーストを焼き、テレビをつける。ニュース番組の始まりと共にトーストを齧った。

「速報です。人工子宮に大きな不正が発覚しました。政府は、提供された精子と卵子を選別し、一部の政治家やスポーツ選手といった優秀な遺伝子ばかりを選別していたとのことです──」

齧ったトーストが口の中に残る。そのニュースを聞いてそれどころではなくなった。人工子宮は精子と卵子を選別していた。ではこの長年、子供ができなかったのはなんだというのか。

「政府はこれを受けて人工子宮を即座に永久停止をする判断を致しました──」

人工子宮による繁殖は終わった。これからは自然派のように恋愛をし、獣のようにセックスをしなくてはいけなくなった。

いや、それも叶わない。齢65の身に性欲など残ってもない。いまさら街の女性に声をかけようなんて思わない。

ただ茫然としていた。ニュースが人工子宮から別の話題に切り替えても口の中のトーストは残っていた。

T氏に子供はいない。

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