”人間”を生産するとは
レール上で安心して乗っていた人の終着駅
最近は、よく「大学なんか行く暇あったらその金で起業しろ」とか「中学高校は暗記中心で生徒に考えさせることをさせない」さらには「もっと社会で役立つ人間をつくれ!」といった内容のことを頻繁に聞きます。
私も長年見てきましたが工場・倉庫において、上から目線ですが、周りにいる人の顔つきがとにかく暗い。言われたことしかしないし、できない時は陰でグチり続ける。
これはほんと学校教育の責任だということをここ近年確信しだしました。ここでは疑う=考えるという行為がありませんでした。もちろん主体が育つことはありません。こういう人たちが増え、一斉に定年退職するとどうなるでしょう?パチンコに入り浸るのも、遊びにおいても快楽を与えてもらわないといけないところに私は苛立ちを覚えるのです。ギャンブルがいけないと言っているのではないのです。
余計なお世話でしょうが自分で道を切り開くことはないので国家が世話することになるでしょう。今でさえ社会保障費は圧迫されているのに。
思考停止人間、歯車人間を作るのが、計画経済というソ連や中国などの社会主義国家の専売特許のように言われてきたのですが、そうとも言えないのです。唯一社会主義に成功した国は日本と揶揄されていることもあるのですから。
国家と学校と工場
終身雇用、累進課税、福祉漬け・・。見事なものです。自国が資本主義国家と名乗ろうが関係ありません。面白い英論文があるので紹介します。
最期のセンテンスのかっこつきの”人間”が国家によって生産されるというのにはゾオーとしましたね。でもこれは事実なんでしょう。
考えているつもりでいても、所詮は自分の置かれた場所での行為なんです。テキパキと生産性を上げる労働者も、多くの契約を取ってくるデキル社員もこの文章を読むとどうも”人間”にすぎないと思えます。そこに属している限り主体・人間はないのです。私自身もそうでした。
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