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きのう、どこかのカフェで「猿田彦珈琲 都内某所」

「旨い。旨すぎる。」
田所陽介はそうひとりごとを言うと、紙のコーヒーカップを円卓に置いた。
ここ、猿田彦珈琲は都内を中心に展開するコーヒーの小規模なチェーンである。2011年に東京恵比寿にスペシャリティコーヒーを提供する専門店としてオープンしたのがはじまりだ。
こだわりの自家焙煎珈琲がウリで、初号店の恵比寿をはじめとして渋谷や下北沢、吉祥寺など若者が集う街を中心に出店している。

原宿店などは広い面積を誇っているが、こじんまりとした内装の店舗も多く、若者たちがパタパタとラップトップのキーボードを叩きながら珈琲を楽しんでいる。

小規模チェーンといえども、名前を知っている人は少なくないだろう。猿田彦珈琲のドリップパックはスーパーやコンビニにも並んでいるしペットボトル飲料なども手掛けている。
店舗を訪れたことはなくとも、スーパーやコンビニでその名を目にしたことはあるはずだ。

田所はふたたびコーヒーカップを口元に運んだ。やはり旨い。
猿田彦珈琲では、季節ごとにシーズナルドリンクが提供されている。田所が今口にしたのは、ハニーカモミールラテだ。
はちみつの濃厚な甘さをカモミールの優しい香りがすっきりとまとめ、そこにコーヒーの苦味が加わる。
まさに三位一体で完成したラテである。

正直、田所はカモミールティーを特別好きでもないし、それをコーヒーと合わせることには懐疑的であった。
しかし、このラテを口にふくんでみると、甘さとさわやかさ、そしてキリっとした苦味がなんともいえない味わいを醸し出す。
コーヒーが苦手な人は、ハニーカモミールミルクという形で、コーヒーを抜いても楽しむこともできる。

田所は、全てのコーヒーチェーンの中で、猿田彦珈琲のアレンジコーヒーが一番美味しいと思っている。
スターバックスのシーズナルドリンクが発表されるたびに、SNSのトレンドに掲載されるほどの話題になるが。しかし、猿田彦珈琲のアレンジコーヒーと比べると、正直なところ、プロの俳優の演技と学芸会のお遊戯ほどレベルが違う。

だから田所はシーズナルドリンクが発売されるタイミングで、なるべく猿田彦珈琲を訪れることにしている。
惜しみながら最後の一口を飲み干すと、机の上に広げたラップトップをカバンにしまった。
さて、そろそろ行くか。
田所が立ち上がろうとすると、店内の奥に座る20代半ばくらいの男性が目についた。釣り上った目が特徴的な今どきの若者といった出で立ちだ。ピンクのストライプシャツにネイビーのハーフパンツというスタイルは、座っていても分かるほどの高身長の彼によく似合っていた。

彼もまた他の客と同じように机の上のラップトップをパタパタと叩いていたが、座っている席は2名以上はお断りの広い席だった。

待ち合わせをしているのかな。

田所はそう思いながら、店内のドアを開けた。
入れ違いで黒いロングヘアの女性が入って来る。田所はジェスチャーで先に入店するように促し、女性は田所に会釈をした。
店を出る間際に後ろを振り返ると、黒いロングヘアの女性は、ピンクのストライプの男性の目の前に腰掛けていた。やはり待ち合わせだったようだ。田所はそう納得して店を後にした。

「久しぶり、ミサト。元気だった?ワーホリから帰ってきたばかりなんでしょ?」
ピンクのストライプの男は、そうロングヘアの女性に声をかけた。
「ああ、まあ。」
ミサトは、そっけなく答えて椅子に腰を下ろす。白Tシャツにブルーデニムというシンプルな出で立ちが、彼女のスタイルの良さを際立たせている。
「水だしアイスコーヒー、氷少なめで頼んどいたから。」
「うん、ありがとう。で、サトルは元気でやってるの?」
「おお、俺はまあ、いつも通りだよ。1年前と変わらない。」
「ふーん、そうなんだ。」
ミサトは腕を組み、椅子に体重をかけてサトルをまじまじと眺めた。確かに何も変わっていないと思う。
「たしかに、サトルは変わらないよね、昔からずっと。あのさ…、」
ミサトが何かを切り出そうとした瞬間、店員の女の子がコーヒーを運んできた。
「お待たせしました。水だしアイスコーヒーの氷少なめです。」
「ああ、歩美ちゃん。ありがとう。」
そういってサトルはコーヒーを受け取り、ミサトの前に置く。

「あ、こちらミサト。前にここで一緒に働いてたんだよ。歩美ちゃんとは時期はかぶってないよね。」
「あ、そうなんですか。はじめまして、歩美です。サトルさんが辞めちゃう前の半年くらいはシフトがよく一緒だったので、お世話になってました。」
ミサトはどうも、と会釈をする。
「そうそう、歩美ちゃんは俺が辞める半年前に入ってきたんだよね。」
「はい。ああ、そういえば由香利先輩も一緒にやってましたよね。由香利先輩元気ですか?」
由香利という言葉にミサトのこめかみがぴくりと動く。
サトルは話し続けた。
「ああ、由香利は元気だよ。歩美ちゃんのことを懐かしいって言ってた。」
「ええー、ほんとですか。それ、めっちゃ嬉しいです。由香利さんに私、すごい憧れてるんですよ。美人だし、一緒にシフト入ってもすごいお世話になったし、それに、今や…」
「ああ、そういえばミサトは由香利と幼馴染なんだよ。
ふいにサトルが言う。
「えっ。すごい。うらやましい。一応私、由香利先輩と同じ大学ですけど、主席で入学した由香利先輩と違って、私は本当に下の方だったんで。だから、由香利先輩に憧れてて。
やっぱり、由香利先輩って昔からあんなにすごかったんですか?」
「ああ、まあね。由香利は昔から変わらないかな。」
ミサトはそっけなく返事をした。
「ええー、うらやましいなぁ。由香利先輩によろしくお伝えくださいね。ところで、サトル先輩って今何やってるんですか?」
「今何やってるか、か。そうだなぁ、自分探し中かな。今日はミサトと久しぶりに会ったから、自分探しの作戦会議でもしようかなって。俺、数日前までシンガポールに行ってたんだよね。」
「えっすごい。シンガポールですか?」
「そうそう、あの有名なインフィニティプール知ってる?あそこで毎日酒飲んだり、毎晩カジノも行ってたかな。」
「ええー、めっちゃ羨ましい。私なんかもう就活シーズンだから、全然余裕ないですよ。羨ましいなぁ。」
「そこまで、うらやましいこともないけどね。」
ミサトは独り言を言うようにつぶやくこと、コーヒーを飲んだ。
一瞬歩美の顔に陰りが見えたが、すぐに笑顔を取り戻すとあんまりお邪魔しちゃ悪いですね。そろそろ失礼しますね。と切り上げていった。

「で、今ミサトは何やってるの?なんかカナダのワーホリから帰ってきたばっかりって噂で聞いたけど。」
サトルが椅子に座り直しながら聞く。
「うん、まあね。サトルは何してるの?」
「そうね、俺は、まあさっき言った通り自分探しだよ。シンガポールの前はトルコとか中東の方をめぐってたりさ。」
「そっか。じゃあ、定職にはついてないんだね。」
ミサトの棘のある言葉を無視して、サトルは続ける。
「海外をめぐってるとさ、いろんな人に会うし、楽しいときもあるけど、ひどいめにも会うし、そこから学べることって多いんだよな。
まだ20代だし、そういうのが後の人生に効いてくると思ってるんだよね。
もちろん、大学出てすぐに就職してっていうルートもあるんだろうけど、なんていうか人生の一番美味しい部分を味わえないまま、みんなと同じことするのもね。」
ミサトはへえ、と言って、所在なさげにコーヒーをすする。
「ところでさ、由香利は、元気なの?」
ミサトの眉がぴくりと動く。
「元気だよ。すごく元気。サトルだって元気だって知ってるでしょ。だって、毎朝テレビに出てるんだから。
ていうか、あの店員の子に由香利と別れたことを言ってないんだね。」

サトルは大学在学中にこのカフェでバイトを始めた。そこで近隣の大学に通う由香利と出会い、自然に付き合うことになった。
由香利は抜けている部分があり、よくオーダーを間違えたし、お客さんの前でコーヒーもこぼした。
サトルはそんな由香利のことを微笑ましく思い、バイト中に彼女をサポートしながら徐々に関係を深めていった。
由香利はおっちょこちょいなところがあるので、歩美が憧れるようなテキパキした性格ではない。しかし、人目をひくような容姿もあり、実力以上に「デキる人」と周りから評価されていた。

付き合っていたころは二人でよく旅行にも行ったし、旅行先でダイビングなどの様々なアクティビティも楽しんだ。
大抵はサトルがプランニングし、全て準備を整えた。手際が悪い由香利のフォローをするのも、可愛い妹を世話しているようで心地よかった。

しかし、大学を卒業して由香利が志望していたテレビ局に就職が叶い、だんだんと連絡が途絶え、ついには音信不通の末に関係は自然消滅した。
毎日朝のワイドショーで笑顔を見せる由香利を見るたびに、「あいつは本当はあんなやつじゃないのにな」と思う。
知的な若手女子アナウンサーとして評価されているが、根はもろく繊細で不器用なのだ。**そう、**自分のようなしっかりとした人間が由香利をサポートする必要があるとサトルは信じ込んでいた。

「あー、わざわざあのタイミングで別れましたって言うのも変だろ。気を使わせちゃうし。確かにテレビでたまに由香利のこと見るけど、あれはあくまでテレビの由香利だろ。ミサトは会ってないの?」
「会ってないことはないけど、まあ、あの子も忙しいし、最近は全然会ってない。」
「そうなんだ。由香利大丈夫?体調とか。」
ミサトはコーヒーを飲み干す。ストローからズズズと空気を吸い込む音がする。
「元気だよ。すごく元気。」

サトルはミサトの瞳を見た。本当に由香利は元気なのだろうか。自分と付き合っていたとき、由香利はよく風邪をひいたり体調を崩していた。
週末の予定もかなりの割合で、由香利の体調不良でキャンセルになっていた。由香利は心配するなと言ったが、心配でゼリーや果物を持ってお見舞いに行ったこともある。
あんなに体力のない由香利が、まだ暗いうちに起きて、テレビの前に2時間も毎朝立っている。本当に大丈夫なのだろうか。

「あのさ、私このあと用事あるんだよね。そろそろ行かないと。」
ミサトは席を立ち上がる。
「あ、俺ももう出るから、駅まで一緒に行こう。」
サトルも慌てて立ち上がる。

店を出ると、二人は駅の方向に歩いて向かった。
「さっきの話だけどさ、本当に由香利元気なの?本当に体調崩してない?」
サトルがそう言うと、ミサトは歩く足を止めた。
「あのさ、ちょっと言っていいかな。」
サトルは無言で唾を飲み込む。
「あたしさ、今日さ、あんたにこれ以上由香利につきまとうなって言いに来たんだよね。さっきは知り合いのバイトの子がいたから、言うのやめたんだけどさ。

はっきり言うけど、あんたがしてることストーカーだよ。
由香利はあんたの連絡先も消してLINEもブロックしてるのに、捨てアカ作ってあの子のインスタとかXとかに気持ち悪いメッセ大量に送りつけてるでしょ。

しかも無言電話が来るからってあの子が携帯変えたら、今度は実家の方にかけてくるようになったって。
会社にも長文の手紙も何通も送られてくるって言ってたし、サトル、あんたでしょ。」

サトルは無言のままだ。

そうだ、由香利に電話をしたり、大量のメッセージを送信したのは自分だ。でも、しかたがないだろう。
俺は由香利のことが心配なだけなのだ。交際しているときによく体調を壊していた由香利。人前では気を張っているけど、本当は繊細で弱い由香利。
付き合っている頃は毎日バイト先や大学から送り迎えをして、彼女の状態をチェックできた。
でも別れてしまったら、確認できないじゃないか。
だから、彼女の様子を知りたくて、声を一言でも聞きたくて、メッセージを送ったり実家に電話までかけただけなのだ。

「だいたいさ、あんた由香利のこと勘違いしてるんじゃない?
由香利があんたと付き合ってる頃によく体調悪くなってたのは、勉強とか就活に専念するためだよ。
あんたはあの子が人生のすべてだったのかもしれないけど、あの子にとってはあんたなんか、学生のときに一瞬付き合っちゃったバイト先のヤバい男なんだよ。

あんたから頻繁に旅行に誘われても、あの子は体調が悪いからって断って、ちゃんと地道に就活して第一志望のテレビ局に内定もらえて、無事にアナウンサーになってるんだよ。」

そんなはずはない。由香利は本当に体調が悪かったんだ。体調が悪くて一緒に旅行にも行けないし、お見舞いに行っても家に行っても風邪がうつるからと家に入れてくれなかっただけだ。

「もうさ、これ来週正式に発表するからって、本人から教えてもらったけど、あの子来月結婚するから。
最近よくテレビに出てる20代で最年少上場したとかいうIT起業家と。もうあの子の人生を邪魔しないで、あんたも自分の人生を生きなよ。

はっきり言うけどさ、あんたとあの子じゃ住んでる世界が違うんだよ。」

由香利が結婚?由香利が結婚するって何だろう。由香利はずっと妹みたいにかよわくて可愛くて、あの子を庇護するべきは俺みたいな存在のはずなのに。
IT起業家ってなんだ。あんなチャラチャラした女遊びばかりしてる男と結婚して幸せになれるはずがないだろう。
なんでそんなことが理解できないんだよ、由香利。
そう、お前が一緒にいるべきは、お前のことを四六時中考えてサポートしてくれる俺みたいな存在だろ。

「あんたとあの子じゃ住んでる世界が違うし、そう、そうだよ。

私とあの子も住んでる世界が違うんだよ。

いい加減気づいてるでしょ?私とあんた、まじめに就職するのが格好悪いみたいな感じで、親の金で海外に遊びに行ったり、そうやって世間の常識に押し流されない自分みたいな鎧を掲げて、必死に見下されないようにしてるだけなんだよ。

あんたとあたしがきりぎりすみたいに楽して格好つけてるあいだに、あの子は蟻みたいに地道に勉強して、就活して、仕事して、人生を前に進めてるんだよ。うちらとあの子じゃ、もう人生のステージが違うの。」

俺は何を言われてるんだろう。人生のステージ?人生のステージってなんだ。俺はただ自分探しをしてるだけなんだ。
そう、海外にいって、刺激的な人と会って、ひどいめにもたくさんあって、人として成長しているはずだろ。

「うちら、もう27歳だよ。いい加減目を覚ましなよ。」
ミサトはため息をついた。

「あたし、この後うちの親の紹介で、事務の面接に行くんだよね。もう、まともに働くべきタイミングなんだよ。
由香利と私たちじゃ、生まれ持った才能やら努力の量の桁が違うの。
さっきカフェにいた歩美ちゃんだって、数年後には由香利みたいに大きな会社に勤めて、うちらとは違う世界に行くんだよ。

サトルさ、もう現実見なよ。」

ミサトは一気にまくしたてると、言いたいことはそれだけだから。と言い残し、足早にその場を去って行った。

蝉の声が鳴いている。もう9月に入ったというのに、まだ鳴いている蝉がいるのか。

ミサトは、いったい俺に何を言っていたのだろう。
由香利が結婚する?俺じゃない誰かと。
由香利と俺は生きてるステージが違う?

遠くで蝉が鳴いている。本当に、これは蝉の声なのだろうか。


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