これがわたしの「コミュニケーション」
TOKECOM(トケコム/東経大コミュニケーション学部)の春節は、優秀卒業制作・卒業論文発表会にはじまります。〈昨年の様子はこちら↓〉
各ゼミから一名、優秀卒業制作or卒業論文に推薦された面々が自身の作品についてプレゼンする、TOKECOM年度末の恒例行事です。本年度は以下15作品が出揃い、2022年2月1日の当日、12名が発表しました。
感染対策抜きにはイベントができないコロナ禍も二年目。昨年は完全オンラインで実施しましたが、今年は教室とオンラインのハイブリッド発表会という初めての試みで、幹事のわたし松永(TOKECOM教員)は内心ヒヤヒヤ。かつてない緊張感で臨みました。発表形態には、実演もあれば、映像上映もあります。教室と教室外と、それぞれに「居る」発表者/聴衆をいかにつなぐか。どうすれば観やすく、聴きやすいのか。合わせて、感染リスクも回避しなければなりません。遠隔授業/会議のスキルを総動員して運営を助けてくれた教職員の同僚各位と、授業にせよ就職活動にせよ、この新しいコミュニケーション環境下で鍛えられてきた発表学生の皆さんに大いに助けられ、無事、大きな事故なく開催することができました。みなさん、どうもありがとうございました。
澄み切った青空のもと13時に始まった発表会も、気がつけば外は真っ暗。終了は17時半をまわるという、かなり長丁場の、実りある、正直みんな疲れ切ってしまうほどに充実した半日となりました。長時間だったから、だけではないんです。発表ひとつひとつがとても面白く、5分の質疑では到底足りない作品の深さと、広がり。10分の発表時間に圧縮された内容の背後に感じられる、膨大なデータと試行錯誤のプロセス。これらを想像しながら作品に向き合い、感動するのですからもう、クタクタになるわけです。「みなさん、疲れましたね」に始まる”終わりの言葉”で、柴内康文教授は、講評として三つのことを指摘されました。
まず、作品のバリエーションの豊かさが、TOKECOMの学びの多彩さを表しているということ。テーマも、方法も、表現のスタイルも実に多様です。優秀作品を眺めれば、"コミュニケーション学でできること"が具体的に見えてきます。
二つめとして、一見バラバラな作品群にも、共通の問題意識が見て取れるということ。バーチャルとリアルの境界が曖昧な「現実」をわたしたちはどのように生きているのだろう。自らのルーツや記憶、かけがえのないものたちと、人はどのように付き合っているのだろう。「当たり前」と思っているわたしたちの考え方や振る舞いは、世界のどんな「力」に影響されているのだろう。たとえ別々の研究対象を選び取ったとしても、同時代に生きている私たちの感受性は、それぞれに響き合う。多数派vs少数派、中央と地方という視点も、それぞれの問いの背後に見え隠れしています。(2025年に30周年を迎えるコミュニケーション学部のこれまでの卒業制作・卒業論文全タイトルの分析をしたら、「時代」が見えてくるのかも?それ自体、卒論のテーマになりうるかもーーと、聴きながら松永は思いました。)
そして最後に、発表者へ。あなたの卒業研究では「コミュニケーション」をどのようなものとして位置づけていましたか。さらに、研究を通して「コミュニケーション」をどのようなものとして考えるようになりましたか。今一度作品を振り返り、考えてほしいということです。なるほどこれは、卒業式までの宿題でしょうか。そしてそれは、今回の発表者のみならず、卒業研究を完成させ、「コミュニケーション学士」となる予定のすべての卒業生に向けた課題とも、言えるのではないでしょうか。
これがわたしの「コミュニケーション」。見つけた答えを、新たな問いを、それぞれに抱えた学生たちの巣立ちの日が、間もなくやってきます。春です。
武蔵国分寺の天と地と。春の息吹が目に見える、二月。湧水ゆたかなお鷹の道と、広い空が魅力です。中央線の走る「東京」、なのですが。
(松永智子)