Twitter騒動と自分探し

なんか、Twitterが騒動になっているようで。僕はSNSを匿名だったりハンドル的な名前で利用することはなくて、そういう意味でTwitterはコテハン的2chぽく見えてしまって、くじら時代と違って積極的に利用することはなくなってしまったんだけども。

でも、あえて実名を使わずにSNSするって、けっこう大切な時間になっている人も多いんだろうなと、ふと思った。それは、なにも実名だとできないような内部告発をするからとかいうのではなくて、「もう一人の自分」だったり「本当の自分」として振る舞えるのかも、みたいな。ゲームとかもそうかもね。

社会との関わり合いの中で、なかなかセルフイメージの自分として振る舞えないってのはあるわけだから、「本当の自分」は大切ですよねと。同時に、昔流行った「自分探し」というものも、まあ、「今の自分」とは違うものを見つけたい、本来自分はこんなんじゃない、みたいな気持ちもあるんだろうなと。

なのだが、思うに、おそらくは。普段の、あんまり好きではない自分(仮面を被っています的な)も、ネット上でそこそこ好きに振る舞う自分も、まだ見つけていない自分も、全部全部、自分なんですよねと。

つまり「自分」というのはひとつではなくて、多数いるんじゃないの? という話。「いろいろな顔がある」なんていい方をするけれども、そもそも人間の行動や思惑に、一貫性なんてないんじゃないのかね。自分の行動が、すべて自分の意識によって行われているかどうかも怪しいそうですよ。

でもそれって一貫性がないし不誠実な感じもして、嫌だなあというのはある。でもな、たしかに人間、一貫性はない。そしてそもそも、ある意味不誠実でないとやってけない面があるんですよ。誠実にしていたら不利益を被ることも多いわけだから。

じゃあどうしたら気持ちよく過ごせるのだろう? と考えた時に、先程言った「全部自分です」というところで納得するほうが良いんだろうなと。

と、いうことは、「自分探し」という言い方はやめてしまって、「自分“増やし”」ってことになるんだろう。

たくさん「自分」を増やしていって、嫌な自分、気に入らない自分は切り捨ててしまって、好きな自分だけ選び取って生きていくと考えれば、ちょっとは気持ちが軽くなるんじゃないだろうか。

「自分を変える」のはたいへんだけれども、まずは嫌な自分は保留にし、「自分を増や」していって、それが気に入ったらそっちに乗り換えていく。そういう戦略は、けっこういいんじゃないですかね。

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