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【SPIRIT of SEAGULLS】vol.7「やってみなければわからない。絶対に諦めない。」栁沼 亮太(’23年度卒)


「SPIRIT of SEAGULLS」とは…
多方面で活躍するSEAGULLS OBに、在籍中に感じたことなどについて執筆してもらう連載企画です


「東海大学SEAGULLSとの出会い」

 高校3年の最後のインターハイが福島県ベスト16で幕を閉じた。「インターハイに出場したい」という福島の公立高校に通う一人の高校生が描いていた夢は呆気なく途絶えた。県内で1、2番目を争う進学校であり、部活動よりも勉学に力を入れていたため無理もないのかと感じてもいた。その時点で、大学でバスケットボールを続けることは頭になかった。「自分のレベルの選手が大学で活躍することは無理だろう。」そんな考えがバスケットボールから自分を遠ざけていった。そのため、進路も国立大学の教育学部を希望していたほどだ。

 そんな自分が、ある時、心の底から“フルフル・ワクワク”を感じた瞬間があったのだ。2018年のインカレチャンピオンになった東海大学のプレーに釘付けになったのだ。華やかなプレーのみならず、ディフェンス、リバウンド、ルーズボールに全力を注ぐ姿、さらにコートの選手、ベンチの選手、応援席の選手が一体となり”BIG FAMILY“を体現している姿に、私のバスケットボールへの情熱が強烈に掻き立てられたことを今でも鮮明に覚えている。それが”東海大学SEAGULLS“との出会いだった。
 「東海でバスケットがしたい!」試合に出られる可能性の方が低いことはわかっていたが、両親に自分の湧き上がる情熱を伝えた。幼い頃から、父はいつも「やる前から諦めることはない。やってみなければわからない。」といつも自分の決断を後押ししてくれた。両親の後押しもあり、12月、東海大学を一般受験することに決めた。


「挫折の連続、絶対に諦めない」

 2月、合否発表。一般受験の結果は、“不合格”。それまでの人生で最大の挫折だった。まさかの結果に絶望、悲しさ、悔しさの感情が混じり合い、涙を流したことを覚えている。高校の顧問には、「東海にこだわらずに、他の大学に進学してはどうだ?」と何度も提案された。しかし、私には一寸の迷いもなかった。両親には「他の大学に行ったとしても、東海でバスケができなかったことは一生涯後悔する。どうしても東海にいきたい。もう一回チャレンジさせて欲しい」と伝えた。「東海でバスケをやるんだ」ただこの思い一つで、1年間の浪人をすることを決意した。

 浪人期間中、予備校に通い、毎日10時間以上の学習、模試の連続で何度も嫌になり、諦めかけた。本当にしんどかった。そんな時に、いつも支えになっていたのがSEAGULLSだった。心が折れそうになった時、試合の映像、ホームページを見て、「いつか自分もここに」そう思い続け勉強に励んだ。不合格から1年後の2月、合否発表の日、結果は見事“合格”だった。安堵と嬉しさから涙が出てきた。「ようやく東海でバスケットができる。」
 しかし、大きな期待を胸に大学に入学した頃に、新型コロナウィルスの影響により、遠隔授業となり大学に行けない事態。SEAGULLSのトライアウトの実施時期も未定の状態であった。1年間浪人した末に先の見えない状況を目の前にし、もどかしい気持ちでいっぱいであった。けれど、ここまできて絶対に諦めるわけにはいかない。いつかトライアウトが実施されるその時まで、トレーニングなどをして最大限の準備をした。

 そんな時、SEAGULLSが提携している食堂にご飯を食べに行った際に、選手やスタッフが続々と入ってきた。バスケ部に入りたいという思いを抑えきれず、今年のトライアウトはいつ実施されるのか直接聞いたのだ。すると、回答は、自分にとっては衝撃的なものであった。

「今年のトライアウトは実施しません。付属校出身の選手のみが入部になります。」

悲しみ、悔しさ、怒り、あらゆる感情が湧き上がってきた。大きな挫折だった。「何のために1年間浪人して勉強して入学したのだ。一般入学に入る門はないのか。」しかし、それでも「東海でバスケットがしたい」という思いは決して無くならなかった。私は、自分の思いと共に入部したい思いを綴ったメールを陸さん(陸川ヘッドコーチ)宛てに送った。実施しないといわれているから、どれほど効果があるのかはわからない。けれど、“やる前から諦めることはない。やってみなければわからない。” 父の教えのもと、とにかく行動に移した。すると、マネージャの方からメールの返信が送られてきた。「今年度はトライアウトを実施しません。」という内容だった。「本当にもうダメなのだ。これまでの努力は何のためにしていたのだろうか。なぜ東海大学にきたのか。」“絶望”の2文字しか感じられなかった。

 「それならば、来年度のトライアウトに向けて準備して絶対に入ってやる」そう決意してトレーニングを続けた。そんな時、一本の電話がきた。電話に出ると、SEAGULLSのマネージャーの方からだった。

「特別にトライアウトを実施することになりました。」

トライアウトの結果、合格となり、東海大学SEAGULLSに入部することになった。「ようやく、ここまで辿り着いた。」そんな思いでいっぱいであった。
何事もやる前から諦めず、自ら行動を起こし、追い求めればいつか結果はついてくるということを経験として感じた瞬間であった。


「目の当たりにした高い壁を打ち破ったもの」

 SEAGULLSに入り、Bチームでの活動がスタートした。能力が高い選手や俊敏な選手、高確率なシューターの選手を目の当たりにして自分がこのレベルの中でやっていけるのかとてつもない不安でいっぱいだった。公立の無名校とは反対に、B チームとは言え全国経験者や国体選抜経験のある選手がたくさんいる。さらに、1年間の浪人をしていたためバスケットから離れていた期間と年齢が一つ下の人と同期となることなどから、はじめは周囲との劣等感を強く感じていた。

 そこで、大きなヒントを与えてくれたのが“1年間の浪人期間”であった。浪人時代の勉強の経験がヒントとなった。それは、がむしゃらにやっていても結果は出せない。自分の最大の強みは何か、自分には何が足りていないのかを自問自答し続けて、自分を理解した上で努力していくことで結果につながるということである。その経験から、自分がなぜここにいるのか、ここにいる意味は何なのかを考えるようになった。自ずと、自分が進むべき道が定まり、まず何から取り組むべきなのか、自分に必要なものが何か明確にすることができた。


 私の場合、最大の強みは、SEAGULLSのアイデンティティーである”ディフェンス”とバスケットボールに対する”エナジー”であると感じたため、その2つでは絶対に負けたくないという思いがあった。日本人にありがちな事だが、自分に足りない部分を補うことに注視しがちで自分の本来の良さや強みを見失ってしまうことがある。弱点を補うことも重要であるが、私は自分の良さをとことん伸ばす、負けないという思いで取り組んでいた。陸さんが常々Aチーム・Bチーム関係なく伝えていたことに、「昨日の自分よりも少しでも成長したと思えるように練習・努力していこうよ」という言葉があった。その言葉通り私は、昨日の自分が今日の自分を作り、今日の自分が明日以降の自分を作ると考え、目の前の練習の時間に全力を注ぎ、質の高い練習をすることができた。自分の強みと日々の練習に対する姿勢を確立していくと自分がどんな選手か伝えることができ、プレータイムを少しずつ増やしていくことができた。

 私の強みを活かす点で具体的に言えば、一回の約2時間程度の練習の時間内で声が枯れるのが当たり前なくらいに声を出し、一回の練習・トレーニングでヘトヘトになるまで自分を追い込み、次の日のことなど考えないほどに“今”という時間に注力していた。とにかく、目の前のことに“自分の100%を出すこと”が成功に最も近い道であるように感じる。それまで、「何としてでも東海でバスケがしたい」という思いで目指してきた自分にとって、どれほどきつい練習・トレーニングだとしてもここでバスケットができていることが何よりも幸せであるということを感じていたのが本音である。なかなかないのかも知れないが、きつい・辛い・しんどいと多くの人が感じる練習・トレーニングこそ自分は“フルフル・ワクワク”しながらやっていたと思う。

 東海大学では、Aチーム・Bチーム関係なく、練習中であっても高いレベルを要求される。もちろんレギュラーレベルの選手であっても練習中のプレーの質が低い、ミスが多い、怪我をしてしまうなどで控えに回るなどは日常茶飯事のように起こる話である。私も練習中のミスや怪我などによりプレータイムの減少はあったが、練習に対する姿勢や本気さを緩めることは決してなかった。しばしば、何事も楽しんでというが、その過程では必ずきつい、辛いことがあるだろう。しかしながら、本気で何かに取り組んでいるときに出会う困難を自分の成長の大きなきっかけとして捉え、それを楽しめるかどうかにより飛躍的な成長につながるのではないかと経験を通して感じた。さらに、私には他のメンバーと異なる経験として1年間の浪人の経験があった。一見すると、この“他者と異なる経験”が劣等感につながるところが大きな自信としてあったことで自分の進む道を信じることができたと思う。他者と異なる経験は必ず、どこかの場面で大きなヒントになるということがあるのだと思う。


「無名校からSEAGULLSキャプテンへ」

 3年生のシーズンの終盤、来シーズンのキャプテンを決める時期が来た。Bチームの同期9人のうちから候補者が自分を含めた3人あがった。正直、まさか自分が候補になるなど思っていなかった。無名の高校でキャプテンをやっていただけで、これほどまでに能力のある選手が揃うSEAGULLSのキャプテンをできるのかという思いが頭を駆け巡った。            しかし、ある2つの思いが私を突き動かしたのだ。「あの時、“フルフル、ワクワク”感じたSEAGULLSの選手の姿を、次は自分がSEAGULLSの選手として体現していきたい。」
「SEAGULLSへの情熱は誰にも負けない。」その2つの思いによって、自らキャプテンをやりたいと立候補した。

 振り返ると、最終シーズンは、本当にタフなシーズンだった。Bチームは選手が19人いて、個性的すぎる9人の同期の選手、同期の学生スタッフはおらず、スタッフが下級生中心の体制であった。正直、最初は同期の4年生も4年の自覚がなく、練習の緩さやまとまりに欠けていたため思い悩むことが多かった。4年同士で話し合う機会や、試合・遠征を重ねるごとにチームとして一枚岩に近づいていった。

Bチームの同期選手たちと

 私は、キャプテンとして決して特別なことをしようとは思わなかったが、必ずこれだけはやろうと決めていたことが2つある。
 1つは、練習の時に必ず選手・スタッフともに必ずコミュニケーションを取るようにしていた。バスケットに関係ない話でもなんでもいいが自分から話しかけ一人ひとりを見るようにしていた。陸さんが練習前によく言っていたことに“成功循環サイクル”の話がある。「結果を先に求めようとするのではなく、関係の質を高めることをすれば自然と思考の質、行動の質も変化し、それが結果に結びつく。」
 2つ目は、練習・試合の時に誰よりもエナジーを出してプレーすること。これは自分がコートでプレーしているときのみを意味するのではない。コート上では誰よりも声を出し、チームがきつい時にこそ鼓舞し、自分の100%を出し、全力で楽しんでプレーすること。コート外では、チームメイトの良いプレーを全力で賞賛して盛り立てること、チームメイトが落ち込んでいたら手を差し伸べること。

 私は、プレーにおいて高いハンドリングスキルや平均20点を取れるような得点力やズバ抜けた身体能力があった訳では無かった。そのため、プレー以外、あるいはスタッツとして目に見えない部分にフォーカスしていこうと決めていた。チームスポーツ、組織というものは、それぞれの役割がある。キャプテンを努めたラストシーズンのメンバーは各々の役割が何なのかを理解して高い遂行力を発揮できたため、Development League(関東1〜3部リーグ所属大学のBチームが出場するリーグ戦)、神奈川県大学リーグの優勝を含めた公式戦全勝を達成できたのだと思う。必ずしもスタープレイヤーにならなければ活躍できないということはないのである。


「ピンチは最大のチャンス」

どんな道の過程にも壁、困難がありピンチの瞬間があると思う。私がそのピンチを楽しめるようになったのは間違いなく陸さんのおかげである。陸さんは、どんな状況にも屈することがなかった。Aチームが秋のリーグ戦で日本体育大学に40点差で敗戦をした。40点差で負けたにも関わらず、いつも前向きな姿勢を貫いていた。「ピンチは最大のチャンスだ」と選手を奮い立たせ、その後の2巡目の対戦では日体大に勝利したのである。

 8月下旬からBチームもDevelopment League予選が始まり、予選1位通過、トーナメント決勝進出を決め、まさに順調であった。チームの雰囲気、練習の質ともにintensity(強度)が高く、チームが一枚岩になるところだった。
 しかし、Development League決勝1ヶ月前の10月中旬、スタートメンバーの4年生2人が怪我をするアクシデントが起きた。さらに、私も同じ時期にこれまでのバスケ人生で一番重度の捻挫をし、4年生3人が同時に離脱してしまうピンチを迎えた。そこから練習の質や雰囲気もみるみる低くなっていくのがコートの外からでもわかった。
 決勝を前にして大きな怪我をして自分を見失いそうだった。ただ、心のどこかで「2週間もすればすぐに治る」という思いがあり、それをモチベーションにして学生トレーナーに練習時、練習後、OFFの時、あらゆる時間を付きっきりでリハビリ・ケアをした。

 しかし、順調に良くはならなかった。本当にしんどかった。同期の4年生が決勝に向けて練習をしている中、自分は来る日も来る日もリハビリしかできなかった。正直、練習を見ているのがもどかしかった。何度も心が折れそうになり、同期に話を聞いてもらったり、両親に話をしたり、信頼できる相手に話をしたりして「頑張ってみようかな」と思いリハビリに励んだ。学生トレーナーにも何度愚痴を言ったかわからないほど、精神的にしんどかった。

 そんな時に、思い出したのが陸さんの「ピンチは最大のチャンス」だった。自分の怪我はピンチだが、これを乗り越えれば必ず目標達成のきっかけになるのでは、自分がプレイヤーとしてもう1段階レベルアップできるのではと思い、「絶対に復帰してコートに戻る」という決意が固まった。その思いでリハビリをし、決勝の1週間前に復帰をして決勝でプレーし、優勝することができて本当に嬉しかった。復帰にあたっては、学生トレーナーの小林崚平には感謝してもしきれない。

 私は、このピンチである怪我の期間で多くのことに気付くことができた。1つだけ挙げるならば、それまでは自分がバスケットを好きでプレーをしていて、とにかく自分がチームの勝利に貢献しようという思いが大きかった。しかし、私がSEAGULLSを見て“フルフル・ワクワク”した姿を自分自身が体現する番であり、怪我の期間で多くの人が自分を支えてくれた。だからこそ、自分のプレーを見て、“フルフル・ワクワク”するような感動を与えられるようなプレイヤーになりたいという自分の原点に立ち返ることができた気がした。


「Play with SEAGULLS Pride」

 私はSEAGULLSという素晴らしい環境の中で4年間活動させてもらい、本当に多くの経験、感動を味わうことができた。チームの大人スタッフ、学生スタッフ、先輩、同期、後輩をはじめ、家族、支えてくれた友人たちには本当に感謝をしたい。今ある環境を当たり前と思わず、感謝を忘れずにこの経験を糧にして次のステージでも”Play with SEAGULLS Pride”を持って自分を磨いていきたい。

 最後に、私が最も伝えたかったことは、最初の私自身がそうであったが、「公立高校だから、ベスト〇〇だから、選抜選手ではないから」という何かしらの理由付けをして自分の可能性を見失ってほしくないということ。できるかできないかという判断基準で物事を決断するのではなく、自分がやりたいのかやりたくないのかという判断基準で物事を決断してほしい。

できるかできないかはやってみなければわからないのだから。


・栁沼 亮太(やぎぬま りょうた)
福島県伊達市出身。福島県立福島高等学校を卒業後、東海大学へ入学。Bチームキャプテンを務めた4年時には公式戦全勝を達成。

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