クールな正義と戦争
2013年12月27日 facebook投稿
安倍晋三首相が靖国神社に参拝しました。特定秘密保護法案への反対が予想以上に国民規模になったことに安倍首相は相当びびっていたのかもしれません。そうすると偏狭なナショナリズムに訴えるしか安心して年を越せないと思って参拝したのかもしれません。その程度の政治的パフォーマンスしかできないということは、首相の資質が浅薄で低レベルだということを証明にしたに過ぎないと思います。
中国と韓国の反発を危ぐする声は強いですが、靖国の問題はいまに始まったことではないですし、安倍首相が自信がない弱い性格でポピュリズム的ナショナリズムにすがるしかないということは近隣諸国もわかっています。
中国と韓国にしてみれば日本を非難するちょうどいいネタを提供してもらったわけで、国内向けに自分の政権の強い態度をアピールできるのですから、中国や韓国の政府は「やったね!」と喜ぶぐらいのことです。つまり安倍首相の参拝は「利敵行為」なんです。そんなことは日中韓ともに分かった上での政治ゲームでしょう。
アメリカがずいぶんと早く不快感を示す声明を出しました。「アメリカも安倍は危ないと思っている」という論調もあるようですが、私はそんなにシンプルには考えられません。そもそも安倍政権の役割というのは「アメリカと一緒に外国で戦争ができる国家になる」ということですから、国際関係にいくばくかの影響を与える靖国参拝についてアメリカの許しを得ていないわけがない。実際に許しを受けていなくても、あうんの呼吸なのでしょう。
つまり、「私は人気取りのために靖国参拝をしますが、アメリカさんは不快感をお示しになっていい子ちゃんになってください。アメリカ様にすこしたしなめられて恥をかくぐらいなんともありませんから。どうぞどうぞ格好つけてくださいまし」ということで、「アメリカよ、同盟国なのに自国を愛し、誇りをもつ心を非難するとはなにごとか!」と逆ギレすらできないわけで、究極の忠犬状態であると思います。
というわけで私は安倍首相の今回の靖国参拝について、なにも心配していません。逆に選挙民の気持ちが離れることを安倍首相はそんなに不安になっていたのかと確認でき、この政権の基盤はしっかりしていないとわかって、むしろ喜んでいるぐらいです。
先の戦争を美化してみたり、中国や朝鮮半島にたいする排外主義を強めたりすることは、実はそんなに恐ろしくないと最近では思うようになりました。戦争をいくら正当化しようとしても負けた戦争が勝った戦争になるわけではなく、排外主義は国内でぎゃあぎゃあ言うだけのガス抜きでシリアスに計画的に戦争をすることには直接には結びつきません。歴史をみれば、近代の戦争は「となりのやつは気にくわないから成敗する」という単純なものではなくて、高いレベルでその戦争をする「正義」を理論付け、軍隊の死傷者ができる限り少なくなるような作戦をたてて、国民を納得させる必要があります。
「中国人はうそうきだ」とか「いい韓国人もわるい韓国人も死ね」というショービニズムでは「正しい戦争」(もちろん括弧つきです)をすることはできません。それよりも、「日本人も偉い、中国人も偉い、アメリカ人も偉い」(大川周明)と示しつつ、相手国民を救うために外国の政権にたいして戦争をするという論理展開のほうが戦争をしやすいのです。
その意味では「大東亜共栄圏」というのは、実際の現場では日本人中心の差別がまかり通っていたとしても、ほかのアジア人を解放するという正義を掲げた点で戦争をしやすい論理だったと思います。じっさい大東亜共栄圏のイデオローグとされた大川周明に排外主義的見解はほとんどありませんでした。東京裁判で「インド人よ来たれ」と言ったように、インドや中国の歴史や文化にたいする尊敬はかなり本気であったと思います。
尊敬のもとに外国を助けに行くということが戦争をはじめやすいのです。レイシズムでわめいている人は実際は戦争なんかこわくてできないと思います。一時の鬱憤を晴らしているにすぎなかったり、大衆の人気が得られるとたかをくくったり、原稿料が稼げたりと思っているぐらいの腰抜けどもでしかありません。
先の戦争の末期に日本軍は無謀な作戦をしたり、特攻なんていう自爆攻撃をして、意味もなく日本人を死なせました。亡くなった方々は本当にお気の毒です。そんなことをすれば厭戦になるのは当たり前です。もはや当時の政権には戦争を遂行する資格も能力もなかった状態だったと思います。
米国で如実なように現代の先進国の戦争は「いかに兵士を殺さないか」が重要になっています。特攻で亡くなった英霊の方たちには申し訳ないのですが、やはり無駄死にでした。振り返って名誉を与えることには異論はないのですが、そういう作戦をした政府や軍はどのような意味でも名誉を回復させることはできません。
「死ね」というより「生きろ」という方が戦争がしやすいのです。そんなことを考えたのは、敗戦後も29年(靖国には英霊として15年まつられていたそうです)にわたりフィリピン・ルバング島で戦争を続けていた小野田寛郎少尉のインタビューを聞いて、びっくりしたからです。
インタビュアーは、冒険家でキューバのカストロとも親しかった作家の戸井十月さんです。
(*プロジェクト担当者より YouTubeのリンクが貼られていましたが、現在は見られません。)
戦争が終わったのにジャングルにこもって地元警察と戦闘を続けるなんて、狂信的な軍人だったのではないかとずっと思っていたのですが、そうではありませんでした。小野田さんは極めて優秀な将校として、着実に任務をこなしていたのです。ラジオで日本の敗戦も聞いていて、しかし軍当局から任務解除をされなかったので、国家と民族にたいする責任感から部下とともに戦争を続けていました。ラジオで競馬ニュースを聞いて、部下たちと賭けをして遊んでいたそうですから、みなが仕事熱心で人間関係のよい会社のようでもあります。
インタビューでいちばん驚いたのは、選抜されてスパイというか特殊部隊のエリート将校を養成する陸軍中野学校にいたときの小野田さんの回想です。陸軍中野学校は将校たちに「死ね」とは決して教えなかったそうです。逆に「なんとしてでも生き延びろ」と教え、サバイバルのためのさまざまな技能を習得させました。さらに思想教育においても、「天皇機関説」の本をおおっぴらに読めたそうです。「天皇のために死ね」というのは一山いくらの兵隊に言うことであって、エリートには民族を存続させるための論理的で客観的な国家主義のシステムを教育していました。「天皇のためというセンチメンタリズムでは死ねないが、国家を守るという正義のためには危険な戦闘もせざる得ない」と考えさせるようにしたのです。
現代の日本を見回すと、そういう冷徹な国家主義者は、幸いなことに政治の世界にも思想の世界にもほとんどいません。中国や韓国にたいしてぎゃあぎゃあわめくだけのヘタレばかりですから、平和なものです。ただ、雰囲気としてのナショナリズムが盛り上がったなかで、へたをするとリベラルな愛国者にも「正義」のようなものを論理的に示すことができる政治家なり思想家が登場したときのことが怖いです。
安倍首相の靖国参拝ぐらいは「まだ平和」なんです。ばかにして、ほっときましょう。それよりも、「クールな正義」が出てきたときに、「ウォームな平和」で立ち向かうことができるのか、備えておきたいものです。