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二重性 辻井喬氏小伝

2013年11月28日 facebook投稿
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辻井喬(堤清二)さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。

辻井さんにお会いすることはできなかったのですが、この方は本当に「日本の引き裂かれたアイデンティティー」というべきものを体現していると思っていました。引き裂かれたというのは、西洋/日本、ブルジョア/労働者、経済/文学、親米/反米など、ずっと日本が分裂し、融合できないでいた自己像のようなものを痛ましくも象徴していた人物だということです。

辻井さんは西武鉄道グループ総帥の康次郎氏の非嫡出子として生まれました。誕生時から二重性をもつ運命にあったようです。後に父との確執、エディプスコンプレックスが大きな文学的テーマとなりました。

旧制成城高校に進み、東大経済学部のときに氏家斉一郎氏(元日本テレビ会長)、渡辺恒雄氏とおなじく日本共産党に入党します。この時代の学生が共産党に入党することは当時では当たり前のことですが、渡辺、氏家両氏がやがてメディアの保守派の重鎮となるように、このある種の「転向」は戦後の言論を著しくわかりにくいものにしました。

辻井氏は親中国共産党の国際派に属し、所感派との権力闘争に敗れたため共産党を除名となります。辻井氏の政治的出発がアジアにありながら、バブル時代に「ホテル西洋」や「西洋環境開発」という名称の会社をつくったことは、今からながめるととても複雑な精神的遍路をうかがわせます。

ちなみに父・康次郎氏は戦後、GHQによって廃された皇族・華族の土地・屋敷を買収しまくり、そこにホテルを建てました。だから「プリンスホテル」なのです。身分社会から発生したものをかっさらうかたちで富を築いた父の姿は、若き辻井氏は強い葛藤を感じたでしょう。

そして西武百貨店を経営しながら、詩人として精力的に活動します。バブル経済が訪れ、セゾングループはまさに「バブル文化」の象徴して拡大します。渋谷をパルコをランドマークとした都市につくりかえ、糸井重里氏の「おいしい生活」というコピーは日本の広告文化を革新。学生運動の過激派だった糸井氏と共産党員だった辻井氏が手をとりあって高度消費社会を演出していったのです。

しかし、辻井氏はこのとき自分の共産主義的思想に矛盾はなかったのではないかと思います。吉本隆明さんがバブル時代にブランド服に身を包み、大衆文化を賞賛したこととパラレルな問題で、「消費によって人々は平等になる」という思想があったと思われます。セゾングループが糸井氏のほか「ビックリハウス」や「シネセゾン」などでサブカルチャーを支援したことに「文化面での階級闘争」のような思いを感じます。

しかしバブルははじけ、デベロッパー会社「西洋環境開発」の巨大な負債で、セゾングループは解体します。辻井氏は95年に「消費社会批判」という博士論文を書きます。「人間的な経営者」と「豊かな生活を求める大衆」をどうむすびつけるのかを記号論を用いながら論じるのですが、お世辞にもほめられた内容ではありません。辻井さんなりにバブルとセゾングループを総括したかったのでしょうが、自らの「二重性」という問題に折り合いをつけ、融合することはできなかったのでしょう。

晩年は文学とともに、知識人による護憲運動「9条の会」の活動を熱心に行います。「9条の会」は、加藤周一さんや鶴見俊輔さんなど非共産党系の知識人もいますが、井上ひさしさんや小森陽一さんら共産党系の人たちの実務力が高く、運営は民青の若者たちがになうという偏見を受けざるを得ない状態でした。党派性をのりこえられない日本のリベラル勢力のジレンマも続いていたのです。

でも辻井さんはこの晩年がいちばん矛盾のない幸福な時間だったのかもしれません。党派性は完全には乗り越えられないけれど、リベラルの大同団結には貢献できたと感じていたかもしれません。宿敵の弟、義明氏が西武鉄道の不祥事で失脚した際、弟を強烈に批判したように「経営者であり、人間的である」という問題もいくらか片付いたのではないかと、すこしダークな見方ですが、あるのではないかと思います。

特定秘密保護法案に反対する運動への呼び掛け人になったことが辻井さんの最後の活動でした。二重性を極端に両幅にふれながら危ういバランスをとり続けた経済人・文学者の辻井さんは日本がこれからどうなると考えていたのでしょうか。私たちは辻井さんの人生をたどりながら、戦後日本の自画像というものを問い直すことになるのでしょう。合掌。


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