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たけのこ たけのこ ニョッキッキ

春。
そう、春といえば筍の季節である。

都会がどうかは知りませんが、田舎のこちとら筍の季節なのです!

先日私初めて筍を湯がくところから経験しまして、今までは、母にやってね!と渡して茹で上がったものを頂いていたのですが、この歳にして初湯がき。

私の体半分あるんじゃないか!!
という筍が皮を剥いでいくと、えっ!こんなちっちゃくなるの…というほど小さくなり(鍋に入れると多い…と思うのですが…)、筍の実態を初めて知る四十過ぎの春でした。

我が家は私と娘が筍好きなので、筍の土佐煮だったり、トムヤムクンの具にしたり、チャーハンに入れたり、スープにしたりと飽きる事なく使っているのですが、先日知り合いから筍いっぱいあるけどどう⁇と言われました。

店で使えばいいのに、断っていた夫に愕然としました。
なぜ⁇ただで頂ける材料を断るのか⁇
謎しかない。
今筍いくらだと思ってます⁇
貰える人からもらうのがありがたいのに…。
融通何効かないやつだ…
と思ったが、声には出さなかった。

私が店をやる時は、こういうのを大事にするに限る!
そう、私は自分の店を持つこと企んでいる。
なぜなら、夫との仕事は合わなさすぎて、イライラモヤモヤが多いからだ。

多分それはお互い様なんだけど、私たち夫婦は2人で1人なんだと言ってくる夫に更にイライラさせられる。

いや、こっちは1人で大丈夫ですと言いたくなるのを堪えているのだ。
夫はとにかく自分がやりたくないことを私に振ってくる。
自分には向いてないからと。
そう言うのは君が得意だからと。

ハッキリ言っておくが、得意ではない。
やらないからやっているだけだ。
器用貧乏とはこういう事を言うのだなと自分で自分を呪いたくなるが、意味が分かってなくても、それなりに何とか出来てしまうのだ。
だからやってるだけで、決して得意ではない。
やりたいことでもない。
でもやらざる得ないからやる。
その上、仕事時間が私の方が少ないからなのか、ほとんどの家事も私である。

十年我慢して行き着いたのは、自由になること。
この歳になると死が意外と近いと感じ始める。

私は長生きしたいなんて思っておらず、何なら早く死ねたら最高だと思う。

自分で死ぬつもりはないが、生きることほど苦行はないと思っている。

ただ、明日死ぬとなった時に、もう少しこんなふうに生きれたら…と思う人生にはしたくないなと思った。
そんな縛られる事なく自分は自由だったのに、なぜ一歩踏み出さなかったのだろうと思う最後は嫌だなと思ったのだ。

何が私を縛ってるのか…。
それは自分の思いこみなのだ。
こうであるべき。
と言う呪い。

なので、私はタイミングが来たら必ず飛び立つと決めている。

夫はそれを本当の所で理解出来ているだろうか?
言葉では伝えているが、本当の理解ができているかは謎である。

家族としての役割を果たしてないのに、人の行動を制限するような発言をしてくる人が、少なからずいるのだけど(大人子供関係なく)、1人の人間として、自分がどうありたいかを伝えていく必要がある気がする。
それは大人も子供も。
そして、受け入れるという気持ちも持つ必要があると思う。

家族は所有物ではない。
1人1人人間なのだ。

そんなことを筍を通して思った夜。

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