雑記:墓から墓へ
高齢な母から墓を引き継ぐことになった。
これは主に事務的な意味での引継ぎとその所感。
1
母が墓の使用者になったのは父が他界した際に、祖母に押し付けられたかららしい。
祖母からすると、最も早く亡くなった自身の子供の家庭にという意味もあっただろうし、父は次男だったが、長男は既に地方へ出てしまっており、「長男」とカウントされていなかったためでもあったのだろう。
そして必然的に墓はぼくの元へやってくる。
この墓に入るべき人はもうそう多くはない。
希望する人は入ればいいのだろうけど、そもそも残りが少ないのだ。
たぶんあと3人くらい。
そういう自分も入るのかどうかわからない。
よく知らないけど樹木葬?「この辺りに埋まってます」でいいと思っているので、いずれこの墓は廃棄される。
それも親族は了承済みだ。
手続きは思ったよりも面倒で、戸籍謄本やら、印鑑証明やら、実印やらといった、使い慣れないものを引っ張り出して集める必要がある。
しかも二人分。
母は実際高齢で、この手の手続きは苦手だ。そもそも受け付けない、知ろうとしない人だから。
ぼくは休みを取って役所や霊園に母と向かう予定を立てた。
2
とある金曜日、書類をそろえて母と小平霊園へと向かった。
平日、なんでもない時期ということもあって霊園は閑散としていた。
いつもなら車でひょいと行くところも、徒歩で向かうとかなり歩く。
傍らにいる母とも次第に会話はなくなっていた。
ふと、「これは書類さえあれば二人で行く必要はないのではないか」とも思ったのだけど、母は墓参りもしたいというので、その考えはそっと蓋をして、どこかに置いてきた。
この日はそんなことが多かった。
「これは言わずにおこう」というやつ、そしてどこかに置いてきたから、もう覚えていない。たぶん5つくらい。
霊園の管理事務所にて所定の手続き。
想定していたような書類の作成を進めて、手続きはほどなく終わった。
特に感慨のようなものはなくて、ただ事務処理が終わったという程度。
一方で母は肩の荷が降りたようで、安心していたが、そこまで負担であったなら、さっさと相談してくれれば手続きなんかは何年も前にでもやっていたのにとも思うが、それを察してやるのが子の仕事なのかもしれない。
ひとしきりの墓参り。
誰かが備えていった缶ビール、口は空いており、倒れたせいで墓石にべっとりと缶が粘着していた。
これは以前にもあった光景で、親族の誰かがビールを(アサヒスーパードライというチョイスも許せない)置いているのだ。
片づけながら、頭の中で犯人捜しをする。めぼしい人は浮かんでいるのだけど、母から聞いた話によると、義兄がよく墓参りをしているらしいので、そちらの線も浮上してきている。
難航する犯人捜し。
並行して行われる墓の掃除。
もういいのでは?と思うほどにゴミを拾う母。落ち葉はいいのではと、言いかけたがこれも飲み込む。
もうそういう指摘をしてもしょうがないほどに十分な高齢者だから。
墓参りも終わり、ぼくは多磨霊園へ向かう。
正確にはその向かいにある府中運転免許試験場へ向かうためだ。
ちょうど免許の更新タイミングも近かったので、平日休みのついでに免許の更新も済ませようと思ったのだ。
3
府中運転免許試験場は府中の端にある、ここのせいで境界線が調整されているようなとこだ。
東八道路沿い、どこの駅からも行きにくい。
ただ、行ってしまえば、免許試験場の人々の迅速な対応によりこの事務処理も短時間で終わる。
なんてことのない事務的な手続きだ。
ちょっと暖房が効きすぎていること以外に不満はなかった。
更新した免許を受け取り、帰りのバスを待つ。
その間にふと、墓のことを考えた。
目の前に多磨霊園が広がっていたから。
うちの家、親族も含めて特に宗教に対して熱心ではない。
仏教徒ではあるが、墓は都営霊園だし、浄土真宗だったはずなのに、間違えて浄土宗の僧侶を葬式に読んだりする家だ。
そういういい加減なところは嫌いじゃない。
そうなると墓参りのルールなんてあってないようなものだ。
ぼく自身もそれでいいとは思う。
墓参りは結局のところ、生きている人が満足するためのものだと思うから。
そこにルールがあるとすれば、それは「自分ルール」だ。
特定の信心がないのだから、依るべきものがない。
それはそれでいいのだけど、それを他人に強要するのは違うよなと思い出す。
「リモート会議のマナー」みたいな、新しいものに対しての勝手なルール作りと強要のようで。
とりとめもなく墓参りの自分ルールについての不満を思い出していたら、やがてバスがやってきた。
ぼくは先頭で待っていたつもりだったが、そこは出口。
バスは中乗りだった。