僕の小学校時代の思い出(1970年代のアメリカ)
僕は親の仕事の都合で、アメリカのロサンゼルスで小学校2年から6年までを過ごした。
最初の2年間は、トーレンス市のMeyer Street Elementary Schoolへhttps://meylerstes.lausd.org/
次の2年間は、グレンデール市のJohn Muir Elementary Schoolに通い、
https://www.instagram.com/johnmuirgusd/
そこで卒業した。
リンクを辿って貰えると分かると思うけど、最初の小学校はアフリカ系アメリカ人が多く通っており、なぜか次の小学校のあるグレンデール市には、アフリカ系アメリカ人がいない(住めない?)環境だった。
今振り返るとアフリカ系アメリカ人の多い環境の方が居心地がよかったかもしれない。僕はもう60歳にもなり自慢するつもりは無いのだが、どうも学力テストで優秀な成績を収めており(当時はGifted Program https://nagc.org/ という制度があり、僕はそれに該当していた)、時々スクールバスに乗せられて、違う小学校にそのような小学生が集められ、何か特別授業のようなものも受けていた。それで通っていた学校の担任の先生が、僕を飛び級させようとしてくれたのだが、僕は「今のクラスが大好きなので、変えないで欲しい」と泣いて頼んだ覚えがある。いやナイーブな子供だった。で、変えられずに同じ学年の同じクラスで過ごすことができた。上昇志向が強くあるべきアメリカにおいて、そんなお願いをする子供は変わっていると思われた筈だ。
僕のナイーブさを表すもうひとつのエピソードを思い出した。僕の名前トクアキを英語に直すと、TOKUAKIで母音と子音が混ざっていて、現地の人にそれを読ませる、言わせるのは至難の技だった。で僕の担任の先生(ザカリアンというお名前だったなー)が、僕に英語の名前をつけないかと提案してきた。例えばTOMとか、まあそんな呼びやすい英語名だ。でナイーブな僕は、そんなとってつけたような名前が嫌で、ひたすら拒否をしていた。そうしたらある日、ザカリアン先生がTOKIという名前はどうだ?君の名前のアタマ2文字とおしり2文字をくっつけるとそうなるし!と提案してくれた。お、なんと日本を象徴する鳥じゃないか!(どうやら国鳥は調べるとキジらしいが)と僕は気に入り、即受け入れた。僕の母に言わせると、それが決まって帰って報告した時は、満面の笑みでいた事を彼女は覚えているらしい。まあ英語名をひたすら回避したというのも僕らしいなと思う。
そんな思い出のトーレンス市からグレンデール市に移って、アフリカ系アメリカ人がいない事に少し疑問を持ちながらも、まあ小学生なのでその環境に慣れていった。その次の小学校での一番の思い出は、なぜか陸上競技部みたいなものに入らされ、なんと短距離走で市で1位になったことだ。まあ、その後日本に帰ってきても、中学校や高校でも1位だったからやはり足は早かったのだろう。でもナイーブな僕はずっと思っていたし、今でも思っている。トーレンス市では1位にはなれなかった筈だと。僕には今でも目に焼き付いている。あのアフリカ系アメリカ人の、カモシカのようにキレイな足で疾走する姿に、僕はまったく追いていけなかった事を。
だから今でも思う。僕にとって両方の学校を体験できた事は大きかったという事。そして、幼少期に多様性を体験できることは、その後に大きな影響を及ぼすということを。