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掌編 ファインダー越しの永遠
動かないで。もう少しだけお願い。
ファインダー越しにボクを覗きながら、少しだけ左に傾いた姿勢で写真家は言った。ボクは言われるまま右の頬を向けて窓際に立った。
撮影スタジオのひんやりとした床を裸足で歩く。古い窓ガラスはゆらゆらと波を立て、そこから小さな庭が見える。
かつて薬局だった一軒家を改装したスタジオでヌードの被写体をして半年ほど経っていた。
白い漆喰で塗られたスタジオの壁に窓からはいる淡い光りが広がっている。腕をのばし壁にもたれたり、美しいと褒めてくれる右側の頬をカメラに向けたりして、シャッター音にあわせてボクは目を伏せる。
午前の陽射しはやわらかく、揺らめくガラスを通してボクの皮膚に波模様を落とす。写真家のまなざしは誰にも予想できない緻密なフレーミングを狙う。そして
「まだよ、動かないで」
おもむろに指示されてボクの全身が止まる。
彼女の乾いた声が天井のファンにかき混ぜられ空中で散り散りになり、脈略なくボクの裸体に堕ちる。
「ゆっくり息をして」
写真家のガイドは的確で無駄がない。
緊張やちょっとした感情の変化がすべて結果として写真に残ることを知っていたボクは、そのリードをすんなり受けいれるのが常だ。それに、彼女の撮る剥き出しの作品も好きだった。
自分以外のなにかを見つめることが撮るひとの内部を露わにする──と、どこかで読んだことがあった。
難しい写真論はボクにはわからない。ただ、本能的にそれをやっているのだろうと彼女の撮る写真から感ることができた。
撮影中、石油ストーブの匂いがして温かくて脳がとろけそうで、ボクはよく眠りそうになってしまう。すると写真家は、獲物を狙う野生動物みたいなスローな動きで足音を立てずにボクに近づいてきカメラを構えた。怒られるのかと思ったけれど、違った。
「だらしない表情がいいわね」
ファインダーを覗きながらジリジリとボクの全身に浴びせ口元だけ笑った。そのたびにゾクっとした。
「モデルに興味ある?」
渋谷で声をかけられたとき、ボクは訝しんだ。男のヌード?
彼女は真剣だった。そのまなざしはただのナンパではなさそうだと直感して、青白いネオンが灯った喫茶店で話を聞いた。
「男性のヌード写真を撮りたいと思っているの」
写真家は柔らかそうな髪が顔にゆるく垂れるのを細い指でかきあげ、作品を閉じたバインダーをひろげて見せた。
「これは“永遠”というテーマで撮りためたもの」
和紙のような厚い印画紙に、霧立つ森や湖がモノクロで映る静謐な物語に見えた。キメ細かいグレーのグラデーションが水墨画みたいだ。ボクはため息を吐いた。
「アルチュール・ランボーの詩みたいですね」
ボクは、永遠という言葉から、むかし読んだ詩集を想い出して言った。
「風景ばかり撮っていたの。でも “永遠” には人間も必要なんだってわかってきた」
「じゃあ、この風景にボクが入るってこと?」
「無理なら断ってくれてもいいけど」
「女性じゃなくて?」
「男性がいいの。媚びていないしフォルムが美しいわ」
両手で包み込むようにカップを持つ指が驚くほど細かった。
自然風景と男性ヌード。凡人のボクにはイメージするのがやっとだったけれど、その人が写真について語る彼女は、とてつもなく切実だということだけはわかった。そして、こんな静かなモノクロームにボクの姿が映りこんでいるのを想像すると、どこか誇らしいような気分になって自分でもおかしかった。
「撮影はわたしとキミだけだから安心して脱いでね」
彼女は静かに微笑み、モデルのバイト代と連絡先を教えたあと、ボクが断らないのを悟っているかのような安心した足取りで去っていった。
たった三時間服を脱げば深夜バイト一週間分をオーバーしてしまう金額だった。その頃のボクは大学も行かず毎日ふらついていて、曇った冬空にうんざりしていた。ちょっとした刺激と高額バイト。それに乗った。
「撮った作品はどうするんですか?」
着替え室で写真家に訊いても、彼女は無言で微笑み返すだけで、いずれは海外で個展を開く予定だということだけを知らされた。
写真家の名前をスマホで調べた。雑誌やSNSの投稿もなく、写真がどう使われるのか全く予想がつかなかった。
でも問題なかった。写真が簡単に出回ったりしないのなら知り合いにバレたりしないし、ボクとしてもちょうどよかったのだ。
バイトは簡単だった。無理な要求はなく、難しいことも言われない。服を脱ぐといっても匿名の美術のデッサンモデルみたいなものだ。
写真家はときどき、スタジオの奥にあるキッチンで淹れたてのコーヒーを飲ませてくれた。ソーサーにはバターの香りがする焼きたてのスコーンが添えてあった。
借り物のモスグリーンのカーディガンを羽織ったボクは、皮膚に跡がつかないように気をつけながら──お尻にしわが残らないように──立ったままそれを頬張った。
なんだか居心地が悪かったのは、温かな光りに包まれた、美味しそうな匂いでいっぱいの平和っぽい空間にいる時間に、ボク自身が慣れていなかったからだと思う。
スタジオの裏のある小さな庭に2メートルほどの樹が植えてあった。『夏椿』という種類だと教えてもらった。
「夏至になると、白い花が咲くの。咲いた途端すぐに花が堕ちてしまうから見逃さないようにしていてね」
窓の外は薄寒くまだ蕾すらつけていなかった。細長い樹の根本が苔で覆われ庭の中でそこだけ盛り上がっている。
「あそこに大切なものが埋まっているの」
と彼女はシャッターを切りながら言った。
レンズを意識しながらボクは訊いた。
「永遠とか?」
写真家は黙ってフィルムを交換していた。答えはなかった。
ボクはそれ以上なにも言わず、窓の揺らめきを肌に受けた。
あのとき、なぜボクはもっと彼女と話をしなかったんだろうと考えることがある。なぜボクを被写体に選んでくれたのか。どうしてボクだったのか。作品はどこに行くのか。庭に埋めた大切なものとなにか。
彼女は個人的なことをいっさい話そうとしなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。渋谷の喫茶店でボクと話したとき、
「あなたキレイなこと知ってる?」と前のめりになって言ったのだ。
「え?」
怪訝な反応をしたボクに
「キミの魂がね、すごくキレイなのよ」
無邪気な笑顔を見せていた。
理屈なく、ざわっとした。
そういう言葉を使うひとにボクははじめて逢った。
スタジオを離れてロケ撮影に行く頃にはボクたちは随分と打ち解けていた。相変わらず話はあまりしなかったけれど、旅行気分で山や滝に向かい、作品に見合う場所でロケーション・ヌードを試みた。
そこで止まって。そう。もう少し右。
ちがう、そうじゃない。
視線を外して、魂の眼で見て。
ボクは夢中で従った。山奥の霧立つ林や、海の見える砂丘に立ち、するすると服を脱いでカメラに向かった。冷たい風が肌を刺し、土と草の匂いにむせ返った。
裸にカーディガンだけ羽織ったボクが寒さで背中を丸めていると彼女はピシャリと放った。
「寒いのは一瞬だけ。写真は永遠なのよ」
やがてボクは集中すると感覚がなくなるのを肌で覚えた。どれだけ寒くても暑くても夢中で砂まみれになったり、滝に打たれて濡れたままポージングすることは写真の質を考えたら大したことではなかった。むしろ自然のなかで裸でいることは快感だった。
そして、ほんのわずかな確率で「いいものが撮れた」と自分でもわかる瞬間があった。どこか遠いところから呼ばれているような既視感がふっと現れて、すぐに消えてゆくような淡い感触だけれど。
ボクは永遠という意味を少しだけわかった気がして、彼女に目配せをした。
山道で鹿の群れに出逢った。雌鹿の後ろに数匹、隠れるように子鹿がいた。はじめて観る鹿たちの神々しさにドキドキして、それが自分でもおかしかった。子鹿の白いハートのお尻がどれだけ可愛らしかったか夜中まで語り尽くすなんて、いつぶりだろう。
テントから見上げる夜空が怖いくらい輝いていた。遠くの山脈にたくさんの流星群が流れ堕ちていくのを無言で眺めた。
「こういうの、日本だと性的搾取って言うんだって」
彼女は額装したプリントをボクにくれた。
そこには、“永遠”の世界が完璧に表現されていた。
モノクロフィルムに閉じこめられた無言の訴にボクは驚いた。自然光が作る野生の匂い。フィルム・ノイズに似た皮膚の描写。遠くに揺らぐ幻影みたいだった。そこに写っているのは人ではなく、はじめて地球に誕生した生き物を連想させた。
そこには時間さえ存在していなかった。近い過去も遠い過去も、ボク個人という生きものも壮大な自然も超え、深層の時間が折り重なり、ほつれ、消えていた。
見ていると、胸の奥が熱くなった。
もし魂というものがあるとしたら、ボクの魂は大声で飛び跳ねて喜んでいるに違いないとさえ感じた。
白黒のグラデーションが美しいその写真を、ボクはピンライトの当たるリビングの壁に飾った。
写真家と最後に逢ったのは初夏のスタジオだった。夏椿の花が散り、苔の上に白い花びらが水玉模様を残しているのが窓の外に見えた。
蒸し暑いスタジオで、彼女はタンクトップ姿でカメラトラップを下げ、撮影がスタートした。
彼女がレンズを覗き床にしゃがんだ拍子に、左がわのタンクトップの肩紐がすべり落ちて、腋と胸のあたりの肌が露わになった。下着はつけていなかった。目の前に現れた彼女の左胸は、乳房がなく、つるりと空洞みたいに抜け落ちていた。
慌てて肩紐を直し、「手術をしたの」とだけ呟いて彼女は撮影をつづけた。大きなカメラに隠れた彼女の目が、いつになく揺れていたのをボクは見逃さなかった。
撮影後、彼女はタンクトップの左がわの紐を下ろし、もう一度ボクに胸を晒した。
「乳がん。左だけ取っちゃった」
ボクは目を逸らさなかった。彼女を真正面から観ることがボクが今できる唯一のことだった。
彼女は首をもたげ左胸を見せていた。乳房は脇からそぎ剥ぎ取られ、まわりの皮膚が引きつり、いくつもの皺が寄りカサカサに乾いていた。えぐれた乳房のかわりに肋骨が浮き上がり、少年のように薄くなった胸板の上にトカゲが張りついたような薔薇色の傷ができている。
ボクは彼女の小さな肩にカーディガンをかけ、ひとすじ落ちた髪をすくって耳の後ろに流し、細い鎖骨をそっと撫でた。
そして、この傷のせいでカメラを持つと首を左に傾けてしまうのだと話す彼女と二杯目のコーヒーを飲んだ。
スタジオに家宅捜査が入ったのは翌週のことだった。
ボクがネットニュースを見たときには、建物に立入禁止のテープが引かれ、彼女の顔写真と経歴がテロップで短く流れていた。
名前も年齢もボクが知っている彼女とはまるで違っていたけれど、驚かなかった。美術品の違法密売とわいせつ罪の疑いで事情聴取中らしい。
ニュース画面に小さな庭が映っていた。どういうわけか、夏椿の樹が根本から抜き取られ、苔の部分に大きな穴が空いている。しっとりと濡れたような黒い空洞は、ファインダー越しの視線を想い起こさせた。
ボクはまなざしが欲しかった。
束の間の快楽にすぎなくても、それを求めなければならなかったふたりの時間を見つめていたかった。
ボクはまだ、右の頬をどこに向けたらいいのかわからないでいる。
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