SNSの変質に合わせた対応

2025年となりました。ちょうど1年前に「あらゆることを自家籠中のものとしたい」と書いて始めたnote。1年間に40回くらい投稿したようです。思ったより多い。
読書記録は19まで来ました。もうちょっと読んでるのだけど記録を書くまでに至っていない。

去年より、もう少しnoteに寄っていくだろうと思われます。
というのも、学生だった頃に社会学的関心から始めたSNSが、昨今変質を遂げている。それを鑑みて、自分の目に触れるものをもう少し考えたいと思うようになっているからです。要するにTwitter辞めたいんです。

かつて大学院で学んでいたころの主要SNSといえばmixiとFacebookとTwitterでした。新興勢力としてのInstagramとTumblr、その他有象無象のSNSが生まれては消えていたころです。
このころから既に「Dairy Me」現象と集団分極化のもたらす弊害は指摘されていました。「Dairy Me」現象は現在「フィルターバブル」として概念化され、集団分極化は「エコーチェンバー」というカタカナ語でよく見ます。

フィルターバブル」とは、アルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーにとっては望むと望まざるとにかかわらず見たい情報が優先的に表示され、利用者の観点に合わない情報からは隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立するという情報環境を指す。

 総務省 令和元年度版『情報通信白書』

かつてはこうした現象が起こることを前提視したインターネット利用が中心でした。個人のブログにおいても、対立する意見の人のブログにあえてトラックバック(これも死語)を設定するなど。
何より、「インターネットの情報なんだけど…」という言葉で信憑性に留保をつけられる程度の文化がありました。

現在では、「インターネットにこそ”オールドメディア”が報じない真理がある」という言説が跋扈する状態のなかで、「いいね」とRTを加速度的に消費した言説が価値あるものと評価されるX(Twitter)、文字情報よりも画像・動画情報に傾倒し、加工と切り抜きでフィクション化していくInstagram、Tiktokが中心となっています。
視覚に訴える、速くて刺激的なコンテンツを量的に消費していくありさまは、研究対象としては面白くとも、単純に好みではない。
イーロン・マスクもいけ好かないし。

年末に現れたmixi2はおそらくそうした観点からオルタナティブになろうとしているのでしょうが、まだ人々は人々が量的に「いいね」してるコンテンツを追う中毒から抜け出ていないため、利用者が増えない。そして利用者が増えたら、結局プラットフォームが1つ増えただけになるのではないか、と危惧されます。

こうした世の中から少し降りてみようと思うのです。
Facebookは「公的な顔」の受発信の場とし、
X(Twitter)はたまに見て世情と(ツイ廃の)友人の気配を感じ、たまに発信したくなったら発信し、
言葉はnoteに載せる、と。

いろいろ書いてるけれど、Twitter辞められない最大の引き留め要因は、楽団の情報インフラがTwitterであること。こればかりはどうしようもない。

面と向かって会えない人たちもどこかで元気にやっている、と思うことで、
SNSに人間関係人質に取られたように思う気持ちを慰めながら。

いいなと思ったら応援しよう!