「探す」
日々、ものすごい数の検索をしている。何か特定のものを探すこともあるけれど、多くは「何かはわからないけど相応しいものを探す」水準の検索が多い。興味深いニュースも、面白い動画も、買いたい品物も、何かよさそうなものをしきりに探している。
一見すると同じ検索も、よく見ると2種類の構え方に分かれているように見える。
1つは、「何かは分からないが、自分に合うものが必ずある」と信じている場合であり、もう1つは「自分にそのまま合うものはないかもしれない」と構えている場合である。
前者の検索は、「自分に合うかどうか」を比較し、違う選択肢を切り捨てて、フィッティングをしていく検索である。後者の検索は、「そのままは合わないが、うまく使えないか」と1つ1つ味わい、思考して応用していく検索である。
前者は「物色」と、後者は「吟味」と言い換えられる。
物色としての「探す」があらかじめ決まった基準への適合度を見るのに対し、吟味としての「探す」はアドリブ的である。吟味している時、自分がそのものに参与し、そのものが自分に参与する。
こういった2種類がありながら、「探す」という言葉で容易に想起されるのは、どうやら「物色」のほうであるらしい。検索して合わなかったら次に進む。そこに広告が「あなたへのおすすめ」をこれ見よがしに見せてくる。
広告という発想の問題は、徹頭徹尾「届くかどうか」しか考えないことにある。
(東京都知事選挙も、広告が自己目的化した姿にも見えた。”良いものを届ける”広告の本義が、”届かないと良くない”、やがては”届くものが良い”へと変わり、内容を無視して公共の場での広告いじりへと変質してしまった。)
物色している時、物色している「自分」は合う/合わないを判断できる特別な位置におり、変化することのない存在である。無数の広告をスクロールしながら、自分に合うものを「探す」ことが、探すことのそのものであると捉える人が増えてきたように思う。
これに対して、「吟味」している時、「自分」は次の吟味で変わるかもしれない存在である。予見を捨てて、対象を味わう。「こりゃだめだ」と捨てるかもしれないが、「思ってたよりいい」と気づくかもしれない。「この前味わったアレと合わせたら面白い」と思いつくかもしれない。思考しアドリブしているこの感覚は、広告の想定をはるかに超える。
「探す」ことに吟味の余白を。