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読書記録21:『手段からの解放』

相変わらず絶好調の國分先生。シリーズ1作目の『目的への抵抗』が大変面白かったので、2作目も発売日に購入した。胃腸炎で行った病院の待ち時間に読了できたのは、すっと読めたからなのか病院が混んでたのかわからない。

『手段からの解放』は新しい研究課題に飛び込んだものではなく、『暇と退屈の倫理学』と『目的への抵抗』を書いた関心を補完していくものだったと思われる。カント論を深めながら、『暇と退屈』で曖昧だった「楽しむ」ということについて検討し、その結果「目的への抵抗」で話が終わらず、「手段からの解放」が必要だという認識に至る。

何かを楽しむことが、何らかの目的に対する手段に容易に転じかねないという懸念は、趣味と教育の2つの世界で切迫感を持った問題意識に見えた。

趣味を何か新しく始めたと誰かに言うと、「なんで?」と聞かれることは珍しくない。別に悪気があっての疑問とは言えない。むしろ興味を持ってくれているゆえの質問である。
しかし、これに答えようとして、私はよく「理由」を考える羽目になっている。
「なんでデザインに興味を持ったの?」「いや仕事でポスター作ることになって…」
「なんでランニング始めたの?」「最近太ってきたから…」。
この「理由を説明する」という作業を経由しているとき、その趣味は何かの目的のための手段に陥ってしまう。

手段を経由しない返答をしたことも、ないわけではない。
「なんで革製品に興味持ったの?」「だって革ってきれいやん」「革好きなの」「いや別に好きってほどではないんだけど…」
しどろもどろになる。

本当は、デザインもランニングも革製品も、なんかやってみたくなったから始めたのである。でも、そんな関心の持ち方だけでやっていくことは結構難しい。物事の優先順位をつけよ、という社会的要求に対して、何らかの合理性・合目的性があるからこれをやるんだ、と自分に言い聞かせることもある。

もう1つは、教育の場面である。学校行事を立案する際には、目的を設定せよとよく言われる。
前著『目的への抵抗』の段階では、アーレントのいう「目的とはまさに手段を正当化するもの』という指摘から、何らか既にやりたいと思っている活動を実現するために、無理やり目的を設定している現場の姿が浮かんだ。
しかし、今回の『手段からの解放』を経由すると、むしろ会議の場面でその行事を通そうとしたり、通った企画を関係職員に説明している姿が問題として浮かんだ。「何のためにこれをするのか」と、合理性・合目的性を必死に説いているその姿である。

ビジネスにおいて、合理的・合目的的に動くことは別段奇妙なこととは言えない。しかし、それに慣れきった私たちは、気づけば子どもたちにもよく「何のためにこれをするのか」という姿勢で迫ってしまうことがある。何のために勉強するのか。何のためにこの大学を志望するのか。何のためにこの科目を取るのか。何のために部活に入るのか。何のためにドッヂボールをするのか。何のためにメイクをして学校に来るのか…。

アーレントが「危惧したチェスをするためにチェスをすることが許されない全体主義社会」は、教育の場面では言説としてかなり近づいている。例えば「こんなん学んで何のためになるねん」と数学を攻撃する生徒は、少なからず全体主義に毒されてきている。
日本において、専門学校が「偏差値の低い状態で進める選択肢」と見られている不思議さも、遠からず関わるのかもしれない。本来は専門職になるための道であるはずが、「手段として学ぶ」だけに純化された選択肢として、魅力的に見えているのかもしれない。

こう考えると、『手段からの解放』は「理由を説明する」ことへの強迫からの脱却を訴えるようにも見える。日常の中で、理由を聞いたり聞かれたりすることが多すぎるようにも見えてくる。

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