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伝達と損失

 音楽をデータで扱う時に、「無損失」の圧縮ファイルにすることがあります。イヤホンを選ぶときにも、「無損失」がいいとかなんとか。圧縮されて音情報が消えてしまわないので、音質がいい、らしいです。今となっては古いレコードも、高音質のままで聴けるのでファンが絶えない、とかなんとか。

 無損失の音源ファイルはデータ量が重い。誰かに送ったり即座に聴いたりするときには、損失ありのmp3あたりで十分満足。ちゃんとスピーカーを通したりすると、そのざらつきに初めて気づきます。

 「無損失」という言葉はずいぶん舌触りの悪い言葉です。普通、損失があるわけです。それが無いだけで褒められる。この舌触りの悪さは、「損失」が経済的損害を思わせるからです。

 言葉が損したような気持ちをもたらす一方で、いろんな伝達はむしろ基本的に損失しているようです。電気も発電所から送電する際に、その途中で5%ほどの電力をロスするらしい。歯車が噛み合って力を伝えるときも、受けた力のすべてが次に伝達されるわけではない。生物のDNA複製ですら、ミスって変な細胞になったりする。

 あらゆる伝達に損失が発生する。どの程度損失が発生するかは、その物理的性質による。では、言葉の伝達にはどの程度、損失が発生することになるでしょうか。
 まず、会話や講義などの音声での伝達を考えてみましょう。話者の脳内にある事項が相手に伝達されるまでの過程は、おおよそ次の通り。
 話者の脳にある伝達事項を言葉に変換→言葉を具体的な声に変換→相手が聴く→音声を言葉に変換→言葉を意味へ変換
 次に、文字による伝達を考えてみましょう。今まさに画面上でやっているのは、この過程。
 筆者の脳にある伝達事項を言葉に変換→言葉を文字に変換→相手が読む→文字を言葉に変換→言葉を意味へ転換
 あくまで感覚です。厳密な認知科学を下敷きにしているわけではないので、違うかもしれません。

 一見して気づくのは、変換がやたらと多いことです。この変換を1回でもミスすると、もともとの意味は正確には伝達されない。伝達のエラーが必然であることを踏まえたゲームが伝言ゲームやジェスチャーゲームですが、私たちはすべての会話において、伝言ゲームをしているも同然だと言えます。
 そして、先ほど整理した過程の全てで変換ミスが起こり得る。
 「うまく言葉にならない」→「ろれつが回らない」→「うまく聞こえない」→「聞いた言葉の意味がわからない」→「言葉を知らない」 …

 日々こうした伝達の失敗に直面していながら、その割に言葉の伝達は「無損失」であると思われがちです。卑近な例だと「だから言うてるやん!」という怒りがそれです。他にも、「あのときそう言ったじゃない」、「一回しか言わないからよく聞いてね」、「大事なことは契約書に書いておきました」、「問題をよく読みましょう」、「使用上の注意をよく読み用法・容量を守って」など、無損失の伝達を期待したり、文章だから何度も読み返したら正確に伝達できることを信じていたりする言葉は、身近に多くあります。
 近年やたらと増えた「シェア」という言葉も、無損失の伝達を錯覚させるものです。コピー&ペーストもシェアボタンも、資格情報を「無損失で」転移させられるような気持ちにさせます。確かに、資格情報の部分は無損失なのかもしれませんが、それでも別の相手に伝わるまでには、文脈なども含めた変換が相当数あります。

 そもそも「最初に考えていたこと」そのものが観測不可能な脳内の電気信号であるわけです。私が考えていたのはこういうことでした、と口に出した段階でそれは変換済み=損失ありです。「脳にUSB繋いで画面に投影したい」という気持ちに駆られたことがあるのですが、それすらケーブルの電気にロスが発生するのではないか…

 それでも私たちは、自分の言葉が無損失で相手に伝わることを、どこかで期待してしまう。伝達ミスを自分のせいにするのも相手のせいにするのも、そういう意味では自分や他人に過度な期待をしていることになります。言葉だろうが文字だろうが、伝達には必ず損失が発生する。そして、その損失があるがゆえに、文脈をつなぐ想像力の居場所がある。あらゆる小説もドラマも伝達ミスを描いているとすら言える。
 無損失の期待を捨てて損失を想像力で補うことが、コミュニケーションの要点となる。そういうわけで、伝わったら嬉しい。機械的伝達がコミュニケーションを代替し得ない理由がここにありそうです。

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