作業と遊び

やがて読書記録にも残そうと思っているが、矢野智司『意味が躍動する生とは何か』を、少し前に読んだ。子どもを大人になる途中の段階としてみるのではなく、「子ども」という生の在り方があること、さらに「遊ぶ」ことと「遊ばないこと」「遊べないこと」という姿から、「子ども」という生の在り方とその不全の姿を捉える一冊だった。

「遊ぶ」ということについて、それ以来頭にずっと残っている。
その状態で、ここしばらく見かけた風景を雑然と並べてみる。

先日、勤務先の高校で文化祭があった。「有志企画」として実施されたものは、K-pop的ダンスと歌とでほとんどが占められていた。

最近、中高生には「BeReal」なるSNSが人気らしい。「映えないSNS」とも言われ、ランダムに来る通知から2分以内にスマホで写真を撮り(インカメラ・アウトカメラ両方)、加工もなしにアップロードする。そうしていないと他のコンテンツが閲覧できないのだという。

相変わらず、ソシャゲは人気である。ガチャ爆死で頭を抱える生徒、古代エジプトの神々はだいたい覚えている生徒。妙に昔の競走馬に詳しい生徒。だいたい何をやっているかは想像がつく。

そんな生徒たちはアルバイトに忙しい。放課後、バイトを望む割合はかなり多い様子だ。もちろん、学習時間の欠落も問題なのだが、それ以上に上記をひっくるめて心配になることがある。

「遊ぶ」をしているように見えないことだ。

そう思った最初のきっかけは、テスト用紙の感想記入コーナーにあった一言。「このあとバイトなので憂鬱です」と。おいおい労働が嫌で憂鬱になるなんて、わざわざバイトしてそんなもん味わってるのかよ、そのうち嫌でも味わうんだから辞めたらいいのに、と思った。

次に、BeRealの仕様を聞いたとき。かつて大学院にいたときにSNSを題材に研究をしていたこともあって、その異質さは強く感じられた。「映えない」かどうかが問題ではない。「投稿のタイミングをアプリに規定されている」なんて、これまで聞いたこともない仕様だったからだ。

BeRealのことを知ってから、ソシャゲの見え方が変わった。多くのソシャゲには「ログインボーナス」なるものが備わっている。毎日アプリを起動してゲームを遊ぶことで、ゲーム内で使えるアイテムが手に入る。連続して一定期間ログインを続けないと、もらえるアイテムの質が下がったりするものもある。
これまでは、ソシャゲの「ログインボーナス」は、一部ゲームが持つ「スタミナ」などの仕様と相まって、ゲームへの依存性を高めさせる効果というようにしか見えていなかった。しかし、「遊び」という観点を見ると、これもまた異質に見えてきた。

そのゲームが楽しいなら、ログインボーナスを設定しなくても遊ぶはず。
なぜ、「毎日ログインしたら報酬があるよ」としないといけないのだろうか。
BeRealの「2分」ほどの拘束力は強くないものの、アプリが起動タイミングを規定してくるという点では類似している。逆に、ソシャゲが持っていたタイミング規定をより強めたBeRealを、中高生がわざわざ愛好していると言うこともできるだろう。

「これをしなさい」と外部から強く規定するものを、彼らは「ゲーム」としてプレイしている。こう見ると、ソシャゲやBeRealは「遊び」というより「作業」のメタファーに見えてきた。

毎日継続して、一定の作業を行うこと。次に行うことは外部から指示されること。報酬を得るために単純な行動を繰り返すこと。こうした構造は「遊び」というには制限がきつすぎる。
「遊び」は、ないものを生み出したり、なれない者になりきったり、それ自体が楽しく没頭できるような性質がある。創造的である。
今、人気のものにはこうした創造性が見いだせない。

創造性を脇に置いた状態で「自由に遊ぼう」と水を向けられると、飛びつくのは模倣だ。文化祭のK-popは、彼らがインスタグラムなどで日々見ているものの模倣だったのだろう。

なぜ、そうであるのか。この分析はかなり難しい。考えるヒントだけは豊富にあるが、真に迫る考究はなかなか時間がかかるように思う。
生徒たちが「将来の仕事に就けるかどうか」をすごく不安視していることとも関わっているように見えるし、フロムの「自由からの逃走」までさかのぼってみることもできるし…。

自分の行動を外部から規定されて「作業化」することを望む姿勢が、今の中高生に特有のものである、という話でもないだろう。おおよそこの社会に通じる問題なのだとも思う。


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