スポーツの本質 ~ドラマ~
オリンピックを見ていた長すぎる余韻でこの記事を書こうと思います!
今回のオリンピックでは、Youtubeなどでエピソードを見せる動画が多かったことは個人的にとてもうれしかったし、面白かったです。
今回はスポーツの本質としてなんでドラマが存在しているかを
説明させていただきます。
スポーツの中にあるドラマとは
スポーツでは多くの達成や壁にぶち当たる瞬間がよく起こります。
人はそれに感動することがよくあると思います。
スポーツの中にあるドラマは、テレビにあるドラマとは違ったものであることを定義したいと思います。
テレビでのドラマとスポーツの中にあるドラマの大きな違いは
偶然起こりうる出来事か否か
であると言えます。
どういうことか。
テレビのドラマには脚本があり、だれがどんな行動をとるかを
あらかじめ決められ、それを忠実にカメラで映し出します。
だからこそ感動するところを故意にキレイにばら巻くことができます。
しかし、スポーツの中にあるドラマはそうはいかない。
誰が主役ということでもなく、だれがこんな結末になるということも
あらかじめは分からない。やってみないと分からない状態です。
このように、ドラマがテレビのように読みづらいからこそ、
人々はハラハラして、驚き、落胆し、悲しみ、感動する。
これがスポーツのドラマだと言えます。
僕はこのスポーツの中にあるドラマのことを
「偶発的なドラマ性」と呼ぶことにします。
偶発的なドラマ性はなぜスポーツで起こるか
たしかに、この偶発的なドラマは
ほかのイベントでも起こりうるんじゃないか?と思う人もいると思います。
その通りです。
例えばアイドルのオーディション番組でのドキュメンタリー。
あれこそ偶発的なドラマを生み出しています。
ただ、僕はこの偶発的なドラマ性はスポーツが特に起こりやすく、
要素の一つとして存在するのではないかと考えます。
なぜかというと、スポーツには(とくに競技スポーツには)
勝敗・記録があるからです。
勝敗・記録といった一つわかりやすい指標があるからこそ、
成果を求める人は努力し、その中でドラマが生み出される。
僕自身も中学3年生の時。
もう絶対に負けたくないと泣いた中学2年の冬から始めた
自主練習を毎日続けて出した初めての100m11秒台。
自己ベストを0.5秒も更新できたあの日のことをよく覚えています。
確かに記録が出た時に嬉しかったのは覚えてますが、
それ以上に嬉しかったのはまずは努力が報われたことでした。
もちろん11秒台がその日に出ることが決まっていたわけでもないし、
主役は僕だけではないことも間違いないです。
このように、この偶発的なドラマはスポーツを通じて
わかりやすく生まれるものだと僕は考えています。
もっというと僕は勝敗・記録はこのために存在しているといっても
過言ではないなとも考えています。
勝敗・記録という指標
勝敗・記録はドラマを生み出す要素になると話しました。
しかし、現実はどうでしょうか?
オリンピックやスポーツのニュースで報じられるのは
順位、メダルの数がほとんど。
そこまでにあったドラマは余裕があれば放送する。
部活動でも勝つことを大事とする強豪校の教え。
勝ったら褒められ、負けたら叱られる。
勝つためにはとテーピングをぐるぐる巻いて、
肉体的にぎりぎりの選手を出させるインターハイ決勝。
僕はなんだか勝敗・記録という手段が目的に成り代わってる
気がしてなりません。
陸上少年は陸上をやりたくなくなった
かつて僕の友人で、中学の頃は陸上競技が大好きで
高校は強豪校に進学した人がいました。
しかし卒業間近に言った言葉は
「もう陸上はやりたくない」
という言葉でした。
彼は陸上競技の中で培った友情やドラマ性が好きだったからこそ
陸上が好きだって言えたんじゃないかなと思います。
もう、これ以上彼のような気持ちを持ってしまう人を増やしたくないから、
スポーツの本来持っている価値を見つめられる見せ方をしていくことを
僕は強く決心しています。