見出し画像

5/16②

本当に辛い時は最悪「あー、今日も生きてた、頑張った」と思うようにしていたが、だんだんそう思うこと自体にも辛くなってくる。こんなにも何もできない状況になってしまった、というかそういう現状に自分がしていることに嫌悪感を覚える。

自分は実家暮らしで衣食住を何不自由なく与えてもらっているのに、「今日も生きてた」って何様か、どの口がそんなこと言えるのか、と自分でも笑ってしまう。


三浦春馬さん、竹内唯子さん、神田沙也加さん、渡辺裕之さん、上島竜兵さんなど有名人で亡くなった人のことを考えると、「なんで死んでしまったんだろう?」と思う。恐らく私が死んでもそう思う人は数人いるであろう。一見順調そうに見えても、その人なりの悩みや葛藤を抱えているものである。そして彼らは衝動的なのか、計画していたのかはわからないが死を選択した。でも私には死にたいと感じてもそれをすぐに行動に移す行動力と、実際に死ぬ勇気がないのである。本能的に生きたいと思う気持ちがあるのだろうか、それはよくわからない。したがって、死ぬことができたなんてすごいと思った。わたしは死ぬ価値すらない人間だとも感じた。でも生きる価値も感じられない。何なんだろう、私というこの無価値な人物は?と思う。

「死んだらそこで終わりだ」という意見もあるが、死のうと思って死ねた人はとても立派であると感じた。死ぬという選択肢を選び、実際に行動にまで移ししっかりと死ねたのだから。私は人生を終わらせたい、と思いながらも死ぬという選択肢に踏み切れない、弱い人間である。


母は私のことをまずは五体満足、ほとんど欠陥がなく健康に産んでくれた。そしてここまで何一つ不自由することなく育ててくれた。なのにもかかわらず、無価値だなんて思ってしまう自分がいることにも何だか心苦しくなる。両親はそれ以上に悲しくなるであろう。また、母に死にたいと言ってしまっ時、「そんなんなら産んでしまってごめんね」と言わせてしまったことがありどうしようもなく申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


瀬戸内寂聴さんの言葉をネットで目にした。

"笑顔を忘れないでくださいね。
憂うつな悲しそうな顔をしてると、悲しいことが寄ってきます。
いつも朗らかに明るくしていれば、いいことが寄ってくるんですよ。"

と言っている。確かにその通りであると思い、私は死にたいと思いつつも、物事に対しては前向きに捉えているつもりである。でも何だろう、いいことが待ってるかもしれないと思ってじゃあ生きようとそう簡単にはいかないものである。また、以下のようにも言っている。

"やっぱり自分が楽しくないと、生きててもつまらないですよ。だから何でもいいから、自分のために喜びを見つけなさい。そうすると生きることが楽しくなりますよ。"

この言葉を見て、自分が喜びを感じる時はどんな時であろうと考える。
人が笑顔になってくれた時、
なにかが成果となって現れた時、
誰かが褒めてくれた時、
人が喜ぶ表情や言動が見れた時
など典型的かつ抽象的なことが挙げられる。
しかし、これらの喜びを感じていないのが現状だ。
では、この喜びを感じるためだったり、何かいいこと楽しいことが待っているだろう、と思って生きていこうとはなぜだかならない。

未来は想像することはできても、実際に喜びや良いことが起きるとは保証されていない。そんな未来に対し、なんとなく不安を抱く。その不安がきっとこの先待っている喜びや楽しみを見えなくしてしまっているのであろうか、よくわからない。


このように死にたいと思っているわけであるが、「死にたい」と「死んでもいい」は意味が全く違うと感じている。「死んでもいい」という言葉は「死にたい」と言う言葉よりも贅沢な気持ちである。なぜなら、別にやり残したこともないし現状に対して不満を抱きつつも、心のどこかでは満足している部分もあり「死んでもいいや」と思うからである。私の心の中にはこの両方の気持ちを抱えているのである。


そろそろ考えるのも疲れてきたので寝るとする。

おやすみなさいzzz




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?