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あの頃の検温戦争
世界が厄災なコロナウイルスに立ち向かっていた頃。
私は冗談で「会社に隕石でも落ちてくれないかな」と呟いたことがある。その願いが歪曲して叶ってしまったような気がして、内心ヒヤヒヤしている。懺悔のつもりで友人に打ち明けると「そんな能力があるなら、もっと悪の限りを尽くしてやりなよ」と、悪魔の囁きが返ってきた。確かにそうかもしれないと思いつつ、その能力の使い方が分からないまま、今日も私はウイルスが蔓延する世界で会社に通勤している。
私はもともと喉が弱い体質があり、コロナ以前からマスクをつけるのが日常だった。そのせいか、入社当時は「なんか訳ありの人」と噂され、ある飲み会では酔った部長から「君、ダウンタイム中かと思ってたよー」とデリカシーのない発言をされたこともある。女性社員たちから袋叩きにされて部長には申し訳ないが、心の中では拍手を送った。
そんな私なので、コロナ禍でマスクが当たり前になっても特に違和感はなかった。一方、同期の中には「マスクはね、後ろから口を押さえられているみたいで息苦しいのよ」と言う人もいた。なぜ「後ろから」なのかは謎だが、これほど嫌がる人もいるのだと知った。
とはいえ、私にもコロナ禍で一つだけ大きな試練があった。それは、会社に導入された“サーモカメラ付き自動検温器”という現代の黒船である。
私の体温は人より高めで、普段から平均37度近くある。さらに少しでも動けばすぐに体温が上がるタイプだ。会社の基準値は「37度」。結果、毎朝検温器の前に立つたびにエラー音が鳴り響き、「今日は帰ってください」と言われ、有休が強制消費される羽目になった。
そこで考えたのが「アイス冷却作戦」だ。出勤前にコンビニでアイスを買い、それをおでこに押し当てて体温を下げる。検温を無事突破した後はアイスを朝食代わりに食べる。一石二鳥の妙案だと思った。
だが、毎朝アイスを買うのは地味に出費がかさむし、勤務中にお腹が冷えて痛くなるという問題が発生した。そして冷凍庫を開けたとき、「そうだ、保冷剤でいいじゃん!」と気づいた自分を心の底からバカだと思った。
アイス作戦を卒業したある日、先輩に声を掛けられた。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」と別部署に連れられる道中、私は直感した。
ついに「アイス検温」の不正行為がバレたのだ、と。
すぐに謝罪すべきかどうか悩んでいると、先輩はこう言った。
「おいしいかき氷屋を教えてほしいの」
聞けば、「毎朝、会社でアイスを食べる猛者がいる」という噂が社内を駆け巡り、その猛者が私であることがバレていた。さらに、噂に尾ひれがついて「かき氷のインフルエンサーらしい」とまで言われていたらしい。普段からマスクをしているのは「身バレ防止」だと思われていたらしい。
その後、私は先輩たちの期待に応えるべく、週末を潰して本物のインフルエンサーの情報を頼りに甘味処を巡り、「おいしいお店リスト」を作成。
翌週、それを先輩に渡し、無事に役目を果たしたものの、なぜ私がこんな苦労をしたのか未だに分からない。
こうして私が小さな噂に振り回される日々を送っている間にも、コロナウイルスは勢力を拡大していた。店に入るときの手指消毒が当たり前になり、まるで神社でお参りする作法のようだ。「お客様は神様」だったはずの風景が、逆転している気がする。時代が変われば常識も変わるものだ。
ふと思い出す。友人に言われた「そんな能力があるなら、もっと悪の限りを尽くしてやりなよ」という言葉。
もし私にそんな能力が本当にあるなら、こう願いたい。
「コロナウイルスが、悪い噂のように、いつの間にか消えますように」