どこかへ 2000年8月の台北、クアラ・ルンプル、ジャカルタ、スラバヤ
2000年の8月末に会社のアジアにある事業所でガバナンスの説明をするため、4都市を訪れました。リコーのコンパクトカメラを持って行きました。そのネガを最近スキャンしたのが載せてある写真です。ライトルームで少しだけ補正してあります。
この時に初めてビジネスクラスに乗りました。中華民航(China Air)でしたけど。確か会社の規定で一定以上の距離を移動する時にはビジネスクラスの利用が認められていました。タイはダメでインドネシアはOKという感じでした。台北はもちろんダメですが、帰りがインドネシアからなので、一連の移動でビジネスクラスを使わせてもらったと記憶しています。ビジネスクラスの食事はテーブルクロスとナプキンがついてきて、初めての物珍しさから写真を撮ってました。
この時の台北の記憶はほとんど残っていません。記憶にあるのはどこへ行っても揚油と八角の匂いがしていたこと、道路が何故が湿っていたことです。事業所の人が会食の前後で繁華街を案内してくれたんだと思います。
この出張では、現地についてホテルに入り、会食して泊まり、翌朝事業所に行って会議して、その後次の場所に移動、というスケジュールを繰り返しました。1週間で4カ所を回ったわけです。会議の他で記憶にあるのはほとんど食事だけです。クアラ・ルンプルではWestlakeというレストランに行ったことを覚えています。なぜ覚えているのか定かではありませんが、この店だけは覚えています。この時に初めて空芯菜の炒め物を食べました。ニンニクが効いていて、とてもおいしかったのを覚えています。その他にも色々と食べたんでしょうが、記憶に残っているのは空芯菜です。
タワーや高層ビルが多いことには驚きました。僕の感覚だと、細長くてとても立っていられないような不安定さに見えました。地震がなくて大丈夫らしいのですが。
ジャカルタは大きな街で、雑然としている印象が残っています。現地の出向者とランチに行って、鶏の唐揚げのようなものを食べました。鶏といっても手羽先のようなもので、独特なスパイスが効いていておいしかったと覚えています。
当時はホテルにもウォシュレットはありませんでした。しかしジャカルタのレストランにはウォシュレットの原型といっても良いものがあったと記憶しています。便器の脇に蛇口があってホースがついていて、そこから水を出して肛門のあたりを洗うことができました。水の出し方に工夫が必要でしたが、まあこれでもいいか、と思わせるものでした。今はどうなっているんでしょう?この後に、インドネシアには行っていません。
スラバヤの空港を出たところで事業所から迎えの車が来ているはずでした。しかし探してもそんな人はいなくて、スーツケースを持った僕の周囲には白タクのような人や土産物を売ろうとする人がひっきりなしにやってきました。No, thank you.といって断り続けていましたが、そのうち出口で迎えを待っている人も一人減り二人減り、ほとんどいなくなりました。白タクの人も僕を見放した頃にそれらしい車がやってきました。道が混んでいたとか何とか言っていましたが、それが当時のインドネシア流だったのかもしれません。
国毎にいろんな事情があることを知りました。政治や宗教も日本とは違います。各国の事情とグローバルを意識した会社の事情の整合性を取ることの難しさを感じました。特に現地でのこれまでの経緯や状況を理解せずに現地の人たちに会社の理念を理解してもらうことは難しいと教えられました。
台北からスラバヤまで、難しい内容を説明するハードな出張でしたが、スラバヤの事業所で食べたランチはとてもおいしかったことを覚えています。いわゆる工場食でそこで働く人はみんな同じようなものを食べます。カレーのような食事でした。隣のテーブルでは現地の人たちが大盛りのご飯をおかわりして食べてました。日本人出向者に聞くと、工場で働く人たちはたいてい1日に1食か2食で、工場で食べるランチがとても大事な栄養源なんだと教えてくれました。確かに元気が出るメニューでしたし、僕の食べた工場食の中でもトップクラスでした。
小さなトラブルや大変なこともあり、僕の覚えている中では最も辛い出張の一つだったと思います。辛かった理由はとても書けません。
ジャカルタから成田に帰るJALの機内で出発前から音楽を聴いていました。そこでビートルズの曲が流れてきて、その懐かしさに僕は思わず涙を流したことを覚えています。The long and winding road だったかな?ちょっとハマりすぎな気もします。別の曲だったかもしれません。カルチャーショックというものを体験したんだと思います。
出張が終わってホッとすることは他にもありましたが、ようやく帰れるというそんな気持ちになったことはこの後は一度もありません。やはり辛い出張だったんです。