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2020年振り返りと「明るい未来へ」

2020年。世の中の「常識」が大きく変化し、働き方、学び方、ライフスタイル、それとともに物事の見方・考え方など、価値観が大きく変わったように感じます。

個人的にも、あらゆる面で大きな変化がありました。


1.中国地方の過疎先進地域に移住

これまで自己紹介等で記載した通り、私はこれまで様々な被害を受けて生きてきました。
生活環境を変えることで、『心の栄養補給』は一気に進みました。
移住前、福岡で生活していた時と比べて、後遺症による不安や恐怖感がほとんどなく、精神的に安定してきています。これからも焦らずに改善を図りたいと思っています。

2.支援「される」側から支援「する」側へ

・被害経験者であることを活かした支援の取り組み
      (シェアハウスでの活動、学習支援等)
・被害者支援に関する情報発信
      (note、Twitterなど)

上記のような支援活動 =「経験や知識のアウトプット」を通して、自分自身の過去を振り返り、それを昇華させることができました。

〇記憶の奥底に眠っていた幼少期の虐待の経験を思い出して解き放つこと
 (暴力の連鎖を断ち切る・虐待のメカニズムの理解を深める)
〇回復プロセスの確認
 (支援する過程でアウトプットして「回復支援の技術」の確立)  

など、支援する側に回ることで、さらに回復のスピードは進み、それが支援の輪を大きく確実にしていきます。

私の所属するNPO女性福祉センターは、被害者が回復して支援する側に回ることで活動を着実に大きくしてきました。

3.私たち家族の命の恩人との別れ

私たち家族の命の恩人、NPO女性福祉センター初代理事長 原田美穂。2012年の福岡市NPOボランティア祭りで私たちは出会い、一緒に仕事をしました。
原田はトラブル処理のため途中から急遽実行委員長になりました。当初、私は企業協賛の立場で参加していましたが、途中から原田に請われて実行委員兼ステージ運営として参加させていただきました。すっかり意気投合した私たちは、たくさんのご協力をいただきながらイベントを無事に終えることができました。
それがきっかけとなって、女性福祉センターの理事に入れていただき、支援する側の仕事を学ばせていただく機会を貰いました。とはいえ、名ばかりで大した働きもせず、淡々と日々を過ごしていました。

転機は2017年にやってきました。虐待の加害者である父と、母の年忌祭のため帰省した際にトラブルがあり、それを機に縁を切りました。
翌2018年初めには虐待の後遺症等により認知の歪みが激しくなり、更に職場のパワハラが重なって精神的に厳しくなりました。その時、原田は私の同行支援(退職に向けた諸手続きや精神的ケアなど)を行い、助けてくれました。
退職後2か月ほど通院等リハビリを経て、4月に転職。その年の12月から、NPO女性福祉センターの活動費を賄うために原田が設立した株式会社との共同で、技術開発をスタートしました。
2019年1月。島根に開発拠点を開設して開発をスタートさせる頃には、私の心の回復も少しずつ進んでいました。と同時に、妻からのDV、愛する2人の子どもへの虐待が顕在化しました。長女は高校受験を間近に控え、息子は生後5か月。まず命を守ることを最優先に、私は子どもたちを連れて女性福祉センター本部へ緊急避難しました(小説化してnote連載中です)。

妻から逃れて何とか生活を立て直すべく奔走しているうちに、あっという間に1年が過ぎました。

2020年。試作機開発が一段落し、製品化のための展開を進めていましたが、最終的な会社の決定は「No」でした。(今振り返ってみると、会社を信用しすぎた私の詰めの甘さもさることながら、どう考えても会社側の意思決定等で辻褄の合わないことが多々ありました。)

3月にはコロナの影響で長女の高校(無事志望校に合格していました)が長期休校に入り、私も生活スタイルを変えて対応していましたが、それも5月には限界を迎えていました。娘も部屋に閉じこもっている時間が増えたことで、妻からの虐待の後遺症が顕著になりました。私もまだ後遺症と闘っている最中で、あまり余裕がありませんでした。

そんなとき、原田から連絡がありました。私と娘の精神的ケアを進めるため、ひとまず娘を島根の女性福祉センター本部に預けることを勧める内容でした。娘に告げると「行きたい」と意思表示がはっきりしていたことから、私はすぐに娘を送り出しました。それから3日後には、娘の精神的な安定や、私自身の認知の歪みなど家族の心身のケアを最優先するため、そして大切な仲間が開発した技術を無駄にすることもできなかったことから会社を辞める決意をし、家族で女性福祉センター本部のある島根へ移住することにしました。


原田の導きのおかげで、私と娘は命を繋ぐことができた、と今振り返ってみても痛感します。


その原田美穂は、今年の10月3日、闘病の甲斐なく癌による多臓器不全で天に召されました。
彼女は、最後まで私たちを見守り、支えてくれました。それなのに、私は自分のことで精一杯で、何も恩返しすることができませんでした。

4 来年に向けて

どれだけ悔やんでも、過去は変えられません。


気持ちの通い合う「安心の仲間」と、心穏やかに暮らせる「里」をつくりたい。

ぼやの村イメージイラスト


故 原田美穂の提唱していた「里山」づくり。遺志を継がせていただくメンバーの一員として、微力ながらこれからの活動で恩送りをしたいと思っています。
年明けには、初の試みとしてクラウドファンディングに挑戦させていただきます。

私のようなハンディキャップのある人にも、愛・光を。明るい希望のある、ワクワクする時代、「変化を楽しむ時代」へ。

これからの人生を、そのために奉げます。
私たちの活動に1人でも多くの方が賛同いただき、支援の輪を広げていただけると幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ぜひ、小説ご購読で活動への支援もお願いします。


音楽と自然、田舎に関する情報を発信するため、また音楽関係者の支援のために活用させていただきます。