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日本の歯科保険診療報酬体系内では咬合診断は認められず

はじめに
 
法の運用には正確な実態の把握が先決であることは申すまでもない。
近年、口腔衛生思想の高揚によって、国民の歯科に対する要望も多様化し、修復歯科(Restorative dentistry)を主眼にした診療形態ではこれらの変化に対応できなくなってきたことは、臨床に携わっている者として痛感することである。開業医を中心としたこれまでの歯科治療が対症療法的なカリエスの修復治療に重きが置かれ、また、歯科医療行政も過去一貫してカリエス・コントロールに終始した政策を講じてきた。しかしここ数年来、歯科の3大疾患のひとつである歯周病に対する国民の関心が強まるにつれて、ときにはマスコミによるキャンペーン的な報道も手伝って、行政当局も無視できない状況になってきた。このような背景のもとに厚生省は今後、予定されている社会保険改訂の手始めとして昭和60年3月1日の診療報酬改定において歯周疾患治療に関する大幅な見直しを行ったが、その内容が臨床の実態に即応しているものかどうか疑問な点が少なくない。
 一方、歯学の進歩は日進月歩であり、進歩した学理を基盤にした最新の治療行為が、保険給付の範囲では無理が生じていたことは良識ある臨床医は勿論のこと、厚生省側も実感として受けとめていたことは想像できる。
昨年来、静岡地裁で争われている、いわゆる上杉事件と今回の診療報酬改定の内容とは全く無縁でないと考えることは短絡すぎるだろうか。
歯周疾患を重視した今回の改訂趣旨が一般開業医に浸透し、実際の臨床で活用されるためには、臨床の実態に即した内容であることが前提になる。実態を無視した多くの規制が今後とも存続するならば、厚生省が目標に掲げた歯科医療の姿は虚構化してしまうだろう。筆者は本誌の特集テーマに準じた問題提起ができるほど保険制度に通じているわけではないが、保険医として日常の診療に従事しているなかで、今回の改訂によって臨床に不都合と思われる諸問題を幾つか検討してみたい。ただ、後述する論点が筆者の社会保険制度に関する不勉強、無理解から生じた部分があるならば、どうかご指摘をいただきたい。

歯周疾患処置上の制約に阻まれた包括的な治療計画
 
今回の診療報酬改定の趣旨は「技術料の重視、プライマリーケアの推進、在宅医療の促進等の診療報酬の合理化の方向に沿い、当面合理化すべき事項について実施し、もっと医療費の適正化と医療経営の安定を図り、良質な医療の安定的供給を確保するものとする」とされているが、その実態について歯科臨床の立場から言い換えるならば、ここで言う診療報酬の合理化とは大幅な包括化(マルメ)を意味し、また医療費の適正化とは受診頻度の少ない処置に点数をスライド(加算)させ、頻度数の高い処置は減点あるいは包括化したものと言える。
 そして、改訂の根幹であった歯周疾患に関する問題点としては、保険の治療術式の基本となる「歯槽膿漏症の治療指針」が手直しされないまま治療手順のみが提示されていることである。この治療指針は昭和42年に厚生省が作成したものであったが、当時の我が国の歯周病学が欧米諸国に比較して立ち遅れていたことは否定しがたい。その後、近代歯科医学の学理を身につけた臨床医の多くは(社)日本歯科医師会および厚生省に対し、治療指針の内容を改正するよう度々進言してきた。日本歯周病学会が後ればせながら昭和56年5月に現在の歯科医学に即応した新しい「歯周疾患治療指針」と「歯周疾患治療における診査および診療行為の要望点数」を合わせて日本歯科医師会に答申して、はや4年が経過した。しかし、今回の改訂では治療指針は旧態依然で、治療手順のみが先行したのは、どのような理由なのだろうか。真意が摑めない。さらに医学的見地からみて一つの疾患に対し、最善の方法をとるのは医師に使命であり医療モラルであるが、厚生省は今回の改訂で治療方法を二通り提示し、点数の高い方を選択する場合には多くの条件(制約)を設けた。これは、医療費抑制の政策が優先されているとの指摘を受けても仕方がない。今後、特に開業医にとって憂慮すべき事柄として、本来主治医が持つべき歯科臨床における裁量権が著しい侵害を受け、それは歯周疾患処置に関するものにとどまらず、歯科全般の治療内容にも深く関わりながら種々の制約(抑制)を強いられる結果になったことである。このことはこれから予定されている特定療養費の適用拡大や医療法改正等の一連の問題とも関連した事柄だけに、我々は慎重かつ深刻に受け止めるべきである。
 ここでは歯周疾患に関する要項について具体的に問題を掘り下げてみたい。最近の臨床および免疫学的研究によって歯周疾患の発炎因子がプラーク中の細菌であることが証明されるようになり、細菌苔の抑制(Plaque control)こそが歯周病を防止するために不可欠な要素であることが明らかとなった。故に補綴の予後を推定(Assumption of prognosis)する際にも歯周組織の健康管理を抜きにした治療方針は成り立たなくなったと考えるべきである。患者さんの自覚(協力)の如何によって補綴の運命が左右されるため、プラークコントロールに対する患者への動機づけ(Motivation)が歯周初期治療における極めて大切な治療行程であることは、現在では周知の事実となった。これはプライマリーケアの立場からも同質の意義をを持つものであるが、今回の改訂でそれがどの程度評価(適応検査100点に含まれる)を受けているか残念な限りである。
 近年、歯科の治療体系が過去の1歯単位から1口腔単位に、さらに1顎口腔単位へと変わってきた。基本的な歯科臨床の目的は顎口腔系(狭義には咀嚼器官)の機能を回復、保持することであることは過去・現在・未来を通じて変りのない原則である。そこで、歯科における治療計画(Treatment planning)は顎口腔系の機能を回復するための治療行程を意味するものであるから、口腔に存在する疾病の処置方針はすべてこの中に包括されるべきものと解釈している。ところが、歯周疾患における「治療計画書」による診療の場合、多くの制約事項(時間・年齢・歯数・補綴との関連等)がつけられているがために、基本的な治療計画(treatment planning)そのものが症例によっては大きく拘束を受ける結果になった。
 今回、40歳~55歳までの患者を対象に残存歯の数により歯槽膿漏症指導時に加算点数が加えられたことは、歯科疾患実態調査の結果を踏まえたものと言われている。プライマリーケアの観点からはむしろ年代を繰り下げた方がより効果的であり、この年代層の患者は多くの場合、多数歯欠損による歯冠長の延長、歯牙の位置異常、咬合平面や顎間距離の不正などを有しているので歯周疾患の立場からも早い時期に治療用義歯(treatment denture)、暫間義歯(temporary denture)、移行義歯(transitional denture)等(歯周治療用装置)による咬合関係の確立と咀嚼器官として機能の回復を進めながら、経過をコントロールすることがより効果的な治療と考える。しかし、「治療計画書あり」を採用した場合、時間的制約により最低でも1ヶ月、あるいはO'Learyのプラークスコアの成績いかんでは数ヶ月もの間、これらの補綴装置の恩恵を被ることが不可能になってくる。これらの多くの制約は、治療計画における方針ならび方法の選定(selecion of method and plan)、治療手順および日程の作成(programming)等にも支障をきたすため、治療計画そのものの変更を余儀なくされている。
 Peltonの報告によると歯を失う原因のうち50%は歯周病に由来するとされるように、歯周疾患は確かに歯科における重大疾患である。しかし、歯周疾患はあくまで口腔疾患の一つであることを再認識する必要がある。顎口腔系の治療を進めるにあたって、歯周疾患処置上の制約のため、歯科治療全般の包括的な治療計画が立てられないとすれば甚だ遺憾である。歯周疾患に対する理想的な治療体系を虚構化させないためにも、臨床の実態に沿った弾力的な法の運用を切に願うものである。
 以下、症例を紹介しながらこの問題点に検討を加えていきたい。

各論
 
咬合の異常と歯周病が合併した症例は、緊急処置を除いて臨床学的には双方の治療を並行して進めるのがより効果的で、治癒経過からみても良好な結果が得られる場合が多い。最近の研究によって、咬合性外傷が歯肉の炎症、歯周ポケットの形成の直接の原因にはならないことが実証されるに至り、ややもすると咬合の問題は重要視されない傾向が一部にあるのは残念である。
実際の臨床ではよほど口腔内環境が良好でない限り、長期にわたる外傷性咬合があるにも関わらず、病的盲嚢が存在しない例は稀有であり、咬合の崩壊現象を防止、回復しなければ歯周病に対する処置にも限界を示す症例が多くある。このような複合型の疾患において、咬合病・歯周病と分断して治療を行うことは、歯科の治療体系が有機的に連携されていない大学病院ならいざ知らず、総合的な臨床知識を持った臨床医ならば包括的な治療計画のもとに治療を進めていくのが常識である。ここに提示した幾つかの症例は、歯内療法を別にして咬合関係と歯周組織に問題があるために、口腔疾患がより重篤な症状を呈したと推測されるもので、筆者はその時点で必要と思われる治療手段を選択した。この場合、もし治療計画書に基づく期間・歯数・年齢・補綴関連・プラークスコア等の拘束があった場合、同質の医療内容が補償され得るかどうかをご判断願いたい。

症例1(図1-1~10)
 概要:85歳の女性。齲蝕と歯周病が原因と思われる歯牙喪失のまま、補綴処置を行わず現在まで放置。残存歯はすれ違いのため咬合せず、歯周疾患とカリエスに罹患していた。
 主訴:咀嚼不全による体力減退。
 治療方針:すれ違い咬合の状態で長期間経過しているので軽度の顎機能異常を起こしているため、取り敢えず治療用義歯を製作し咀嚼機能の回復と顎機能の改善をはかりながら歯周療法、歯内療法を並行させて施行することにした。
なお患者は衰弱と高齢につき、抜歯ならび歯周組織の外科処置は極力避け、保存療法で治療を進め、残根はオーバーデンチャーの支台歯に利用する方針を立てた。

66 包括的な治療計画を望む


67 包括的な治療計画を望む(1)

症例2(図2-1~11) 概要:47歳の女性。重度の歯周疾患と咬合崩壊によって咬合位が保持できず低位咬合になっており、上下顎前歯部の唇側傾斜と動揺が顕著。
 治療方針:歯周療法と並行して、偏位した咬合関係を改善する目的で、治療用義歯による咬合挙上を含めた咬合の確保と咀嚼機能の回復が先決である。

68 包括的な治療計画を望む(2)


69 包括的な治療計画を望む(3)

症例3(図3-1~11)
 概要:53歳の女性。下顎は無歯顎。残存歯はすべて修復されているが、補綴物の破損がみられ、上顎右側1、2番 左側2,3番は残根状態になっていた。下顎の顎堤吸収は顕著で、総義歯の安定性は極端に不良。
 治療方針:上顎は歯周療法、歯内療法によって歯牙を可及的に保存。下顎は総義歯の再生。

70 包括的な治療計画を望む(4)
71 包括的な治療計画を望む(5)

症例4(図4-1~11) 概要:67歳の女性。他院でプラークコントロール・歯周外科・暫間固定術を受けたにもかかわらず、歯周組織の改善に限界があり、咬合の崩壊が進行するため、紹介されて来院した症例である。
 治療方針:審査の結果から、motivation.brushing (plaque score28%)などにはあまり問題がなく、咬合の崩壊を食い止めることが先決であると判断した。上顎前歯群の唇側転位を矯正することでanterior guidanceの確保を試みた。

72 包括的な治療計画を望む(6)
73 包括的な治療計画を望む(7)


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