ピコピコ中年「音楽夜話」~番外編:私的な卒論アーカイブ②
【前回】:↓↓参考文献、序文↓↓
はい。ということで、またまた誰にも望まれていやしない自己満150%記事がやってまいりました。
と言いますか、基本は自身の卒論を「転写する作業」なもんですから、自身の書きたいことを分泌(文筆)する作業とは異なります。23歳当時のワタクシが分泌(文筆)したかったことですから、それはそれでいいんですけれども…。
まぁ、そんな感じで、ちょっと普段noteに書いている記事と趣が異なるもんですから、どうせならばさっさと作業を完了させたくなりました。積極的に転写しちゃえしちゃえということで極々私的な卒論アーカイブ、part2。今回は第1章です。レッツらゴー!
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1章 ポップミュージックについて
1章1節:ポップミュージックとは
ポップミュージックにおける日本語歌詞に焦点をあてて考える前に、これからここで論じるポップミュージックとはいかなるもののことを言うのか。音楽のジャンルを示す狭義の「ポップミュージック」との誤解を避けるためにも、その「定義」について触れておきたい。
それは「音楽」といった幅広く、大きな枠組みを示すものではない。それは、伝統とそこから生じる戒律・ルールといったものが何よりも重んじられるものでもない。そして「ポップミュージック:pop music」という記述は省略形であり、省略せずに表記するならば、それは「ポピュラーミュージック:popular music」と記述される。額面通りに受け取るのであれば、popularなmusicということで「大衆音楽」・「民衆音楽」と訳されるものである。
一般大衆が聴く音楽。確かに、私たち=一般大衆が聴いている音楽であるのだから、定義としては正しいように思える。だが、「ポップミュージックとは、大衆音楽のことである」という簡潔な定義だけでは、TV・ラジオ、最近ではインターネット上のウェブサイトなど、様々なメディア上に音楽が溢れている環境で日々生活している「私たち」の感覚を適切に表現できていないように思える。
レコードやラジオといったメディアによる音楽の配信システムが整ってから、おおよそ70~80年が経ったと言われている。そして現在「音楽が溢れている」という言葉が誇張ではなくなってまうほど、私たちの周囲では、日々目まぐるしく速度で次々に移り変わりながら音楽が流れている。
街を歩けば、どこからともなく流れてくるメロディが耳に入り、TVのチャンネルをひねれば24時間どこかで何かしらの音楽が流れている。まさに音楽が洪水のように「溢れている」現状。このような数々のメディアへの露出によって大量消費されている状況をも考慮にいれなければ、これから論をすすめていく私たちにとっての定義とはなりえない。
ではどのようなものが「定義」たり得るのか。ここは音楽学者でもある由比邦子のポップミュージックに対する定義を参照したい。
発達する複製技術によって「大量」生産され、マス・メディアと結びつき「大量」消費されるもの。時代によって生産や消費の量に差こそあれ、私たちを取り囲んでいるもの。さらに付け加えるならば、流通システムの流れに乗り、私たちの手元に届けられる商品の一つとしての「モノ」ではなく、その時代時代において新しいメロディが、リズムが、またあるときはその時代に生きる人々の心が様々に絡み合い、ときには衝突するといった、常に「時代のダイナミズム」に晒され続けているもの。あたかもまるで一つの巨大な有機体のような存在。
それをこの論文における「ポップミュージック」の定義としたい。
1章2節 90年代以前のポップミュージックの流れ
さて、ポップミュージックの定義については、ある程度明確になった。次に、日本におけるポップミュージックの歴史についてその大まかな流れをまとめてみたい。
ポップミュージック、それが常に時代のダイナミズムに晒されながら変化を続けてきた存在である以上、90年代ポップミュージックの現状をテーマにするからといって、90年代だけを切り取って考察するわけにはいかない。日本語歌詞にフォーカスする前に、まずは日本のポップミュージックそのものが辿ってきた道筋・流れといったものを踏まえるため、年代をおってみていきたい。
なお、年表・年代の区切り・音楽に関する時事的な事柄等は、宮台真司・石原秀樹・大塚明子の共著「サブカルチャー解体神話」、佐藤良明「J-POP進化論」を参考にしている。
<1945~1954年>
戦前は、大正末年あたりに確立した大手レコード会社の専属歌手・専属作詞作曲家制度を中心に大衆向けの音楽が作られていた。しかし、まだまだ日本のポップミュージックシーンはメディア状況も幼く、他国のポップミュージックとの異種配合的な動きはあまりみることができなかった。
だが、戦後1945年(以降年代は下2桁のみで表記)WVTR(現在のFEN)が開局。放送を開始したことにより、日本への主にアメリカンポップスの流入が大々的に始まることとなる。46年NHK「素人のど自慢音楽会」が放送を開始し、「戦前・戦中的な流行歌をみんなで高らかに歌う」という、アメリカンポップスの流入に対するある種カウンター的な動きがあるも、その流入の波は大きく、日本のポップミュージックに徐々にではあるが、異種配合的な目立った影響を与え始める。
48年、ロックンロール登場以前のアメリカポップミュージックシーンでもてはやされていた「ブギウギ(ジャズの奏法の1つ)」のリズムを取り入れ、笠置シヅ子「東京ブギウギ」が大ヒット。52年、ジャズの大流行。明るくビートのきいた音楽の目新しさと、アメリカという国に対する「屈折した憧れというか、愛憎入り混じったアンビバレントな感情」(佐藤、1999、22頁)により、戦前・戦中的な所謂日本歌謡曲は徐々に湿っぽい日陰のものへと押しやられることとなる。
そしてその頃、アメリカでロックンロールが誕生。日本のミュージックシーンへも流れ込んでくる。
<1955~1963年>
ロックロールとは、カントリーと呼ばれる白人ポップミュージックと、ショー的要素や性的要素といった快楽追及性に重きを置く、黒人リズム&ブルースとの異種配合によって生み出されたものである。
55年公開の映画「暴力教室」の挿入歌ビル・ヘイリーとコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のヒットがロックンロールブームの火付け役であるとされており、リズム的な点でいうならば「2拍目4拍目を強調する音楽」(佐藤1999、153頁)であると言える。
日本においても、ロックブームの中から登場したエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」が56年小坂一也によって日本語カヴァーされブームとなり、その後のロカビリーブームへと繋がっていった。また、そのロック・ロカビリーブームの一方で「もはや戦後ではない」といった世情もあり、日本語歌謡曲シーンでは、現代的な都市と田舎の対比・故郷への郷愁というものを強調した曲が多数登場する。57年「東京だよおっ母さん」、59年ペギー葉山「南国土佐をあとにして」などである。
<1964~1971年>
ベンチャーズの登場と共に、日本でもエレキインストゥルメンタルがブームとなる。インストゥルメンタルとは、エレキギターの演奏のみで歌詞がないもののことである。
65年フジテレビにて「勝ち抜きエレキ合戦」が放送開始。同年東宝「エレキの若大将」が封切りされるなど、日本中でその猛威をふるうが、それほど息の長いブームとなることもなく、エレキインストゥルメンタルがポップミュージックシーンにしっかりと根付くまでには至らなかった。だが、この60年代中頃から徐々に聴いている音楽の明確な「世代間断絶」が生じ始めるようになる。それだけ日本ポップミュージックのヴァリエーションが豊かになってきたとも言える。
66年、エレキインストゥルメンタルブームの終焉を引き起こした要因の一つでもあるビートルズが来日。ビートルズ、ローリングストーンズ、アニマルズといったロックバンドがセンセーションを巻き起こすなか、ロックバンドの歌謡曲的解釈ともえいるGS(グループサウンズ)が続々と登場。67年タイガース「僕のマリー」、ゴールデンカップス「いとしのイザベル」。68年オックス「ガールフレンド」でデビュー、その少女漫画的路線と「あの人たちをわかるのは私たちだけ」(宮台・石原・大塚、1993、60頁)といった心情を喚起させるところなどから、主に女子中高生を中心にブームとなり、その後の新三人娘(小柳ルミ子・南沙織・天地真理)、新御三家(西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎)といったアイドル路線へと繋がっていく。
また大学生層は、アメリカのニューポート・フォーク・フェスティバルやモラル・リアーマメント運動(道徳再武装運動)といった政治色の強い、一般的にカレッジ・フォークと呼ばれるフォークソングを支持。まだロックが英米のものであるという感覚が強く、ロック=英語歌詞、英語歌詞でなければロックではない、といった風潮も手伝い、自分自身の心情を表現するには「日本語でフォークソングを歌うしかないのでは」と、さらにブームが加速する。
そしてこれらフォークソングの動きは、徐々に大学生層の支持を離れ、ヒットチャートに並ぶ消費される「商品」として流通し始める(第一次フォークブーム)。お茶の間ヒットの代表曲は、66年マイク真木「バラが咲いた」、67年フォーククルセダーズ「帰って来たヨッパライ」などである。この後、フォークソングは当時勃興期にあった深夜放送メディアと強く結びつき、反商業主義的姿勢を形成しながらアンダーグラウンド化していくこととなる。
ここで登場する深夜放送メディアとアンダーグラウンドミュージックという、この当時生まれた切っても切れない結びつきの中から、ロックミュージックにおける日本語歌詞という、この論文におけるテーマが初めて取り沙汰されることとなるのだが、そのことについては次章以降で詳しく触れることとする。
<1972~1980年>
60年代アンダーグラウンドミュージックの「敵を想定することで我々の結束を固め、自らを鼓舞する作法」(宮台・石原・大塚、1993、66頁)が社会的に敗北し、いわゆる「シラケの時代」へと突入。70年代前半から始まる第二次フォークブームもその世情に沿って、徐々に反商業主義的知瀬からシンガーソングライター至上の姿勢へと変化。「ニューミュージック」という呼び名へと変化していく。
ちなみにこれらの方向性は、自分自身で作詞作曲・歌唱している「シンガーソングライター」と、作詞作曲された曲を「歌っているだけ」の「アイドル歌謡曲」といった対比がポップミュージックシーンの中で生まれ始めたことも意味している。
フォークミュージックからニューミュージックへの動きをヒットチャート的に見てみると、72年吉田拓郎「結婚しようよ」、73年南こうせつとかぐや姫「神田川」・井上陽水「氷の世界」。これらフォークソング的な解釈をされる楽曲から徐々に、76年荒井由実「中央フリーウェイ」・さだまさし「関白宣言」・松山千春「長い夜」といった、ニューミュージックと呼ばれる楽曲へブームが移り変わっていった。
このようなニューミュージック隆盛の中から、78年サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビュー、さらに79~80年YMOがアルバム「ソリッド・ステイト・サイバイバー」でヒットを記録し、世界進出を果たしエレクトリックミュージックブームを巻き起こすが、78年ピンクレディーが「UFO」で日本レコード大賞受賞、後楽園球場でのキャンディーズ解散コンサートが国民的な関心事になるなど、まだまだアイドル歌謡曲業界以上の国民的な関心を獲得するまでには至っていなかった。
また、この70年代末頃、アメリカ・ニューヨークのスラム街のディスコやパーティ会場から「ヒップホップ」が誕生する。それは70年代中頃に登場したラップ(RAP:”おしゃべりする”という意味のアメリカ黒人が使用する俗語)と2台のターンテーブルを用い、既存のレコードや自分でプログラミングしたリズムなどを途切れることなく繋いだ「バック・トラック」とを合体させたものである。ちなみにラップとは
というものである。
既存の音楽を一度解体し再構築してもよいのだ、というコロンブスの卵的な考え方と、ラップというポップミュージック史上画期的な発明がなされたわけであるが、このヒップホップがアメリカ国内を席巻し日本へ流入してくるのは、もう少し後のことである。
<1980~1990年>
ニューミュージック・アイドル歌謡曲という対立項、ポップミュージックマーケット内での対比は、若者の支持を集めたニューミュージック側に軍配があがっているかに見えたが、85年おニャン子クラブが登場し「素人アイドル」が大ブームとなり、アイドル歌謡曲も引き続き盛り上がりをみせていた。
そのような流れの中で、83年年末松任谷由実(荒井由実)がアルバム「ボイジャー」をリリース、その後毎年同じ季節に曲をリリースするという、アーティストのキャラクター性を強く印象付けるマーケティング手法を確立。ニューミュージックと呼ばれていたものは、徐々にそのあり方が「若者のオシャレなアイテム」的なものへと変質していく。
またこの時期に、ニューミュージック・アイドル歌謡曲に対するカウンターとして、今までアンダーグラウンドで活動を続けてきたパンク・ニューウェーブといった音楽ジャンル(マーケティング内の名称としては「ロック」と呼称される)が盛り上がりをみせる。その盛り上がりは、二項対立的だったヒットチャートへも飛び火し、パッケージをニューミュージックから「ロック」へ変えただけで売れるという、ヒットチャートの「ロック」化が起こることとなる。
83年尾崎豊「17歳の地図」・佐野元春「No Damege」、85年ハウンドドッグ「フォルティシモ」・渡辺美里「BREATH」がヒット。
また、86年に全米でRUN DMC「Walk This Way」が爆発的ヒットとなり、ジャージにアディダスのスニーカーというファッションと共に日本にもヒップホップが流入。アンダーグラウンドでの最先端な流行として、いとうせいこうや高木完・藤原ヒロシのタイニーパンクスが日本語でのラップをレコーディング。その後88年、日本のヒップホップを中心にリリースするレーベル「メジャー・フォース」が設立されるが、まだヒットチャート的な盛り上がりとは程遠かった。
1章3節 日本語歌詞にむけて
かなり大雑把にではあるが、日本におけるポップミュージックの流れというものを年代を追ってみてきた。様々なメディアの状況が整うにしたがい、欧米のポップミュージックと日本のポップミュージックの異種配合が進み、様々なジャンルの音楽が誕生し、アンダーグラウンドシーンというものも活発になっていった。
この大きな流れ、うねりは、内部が複雑に細分化していることからもわかるように、ポップミュージックにおける「大衆」が主に「若者、そして個人」というものへシフトチェンジしたと言い換えることができる。
では、そのような流れの中で、日本語歌詞というものはどのように変化していったのだろうか。次章では、日本語歌詞を考える上での各時代におけるターニングポイントを中心にみていきたい。
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②了