新津のガラスのこと。

 小学生の頃。通っていた小学校のほど近くに小さなガラス工場があって、図画工作の授業で写生に行った。
 新津丘陵の入り口にひらけた集落の、端っこと端っこを結ぶ細い道をひたすら歩いた。集落の一番奥、森の中といってもいいぐらいのところに、工場はあった。
 なんだか薄暗い工場(森の中にあるからか、窓はあっても自然光は木立に遮られていたようだ)の真ん中にある炉の火が赤々と燃えていたのと、細い管の先に熱いガラス球をつけて膨らませる「吹きガラス」の職人さんがちょっとだけ怖かったのを覚えている。

 その工場があった旧新津市南部には、他にもいくつかガラス工場があった(小さい頃は気にもとめなかったけれど)。
 同じ旧新津市の東側に位置し、新津油田の原点ともいえる史跡「煮坪」がある草水町なども、かつてガラスの一大産地として栄えていた。石油と一緒に天然ガスが出ていたから、ガラスの原料を溶かすための燃料には事欠かなかったようだ。
 新津でガラス製造が始まったのは、戦後間もない頃のこと。昭和22年に草水の隣町の滝谷にあった工場で、電球や真空管の部品を作ったのが最初だという。その後工場はどんどん増えて、昭和33年に16軒、51年には34軒を数えた。
 主に製造されていたのは、電球(海外に輸出されていた時期もあった)、医薬品を入れるアンプル、それからクリスマス用照明。緑色の細いコードに色とりどりの小さな電球がビッシリついていて、クリスマスツリーに巻きつけて点灯させるアレ、だ。
 しかし、昭和60年代に入るとプラスチックや光学機器の製造にシフトするところもあり、工場をたたむところもあり…… という感じ。油田の枯渇に伴い、天然ガスも噴出量が減ってしまったなど、さまざまな理由があるだろう。小さい頃に写生に行った森の中の工場も、ずいぶん前に廃業したらしい。

 この間、新津のガラスのことを調べてみようと図書館に行き、郷土資料の書棚に張りついて何冊もの本を開いては棚に戻し、を繰り返した。でも、新津のガラスについて書かれたものはデータ的な資料以外ほぼ見つけられなかった、といっていい。
 いうまでもなく、新津といえば石油。ガラスも、生産時の燃料として重宝された天然ガスも、主役ではなかった。でも、天然ガスに後押しされて(というかタッグを組むような感じで)発展したガラス工業は、今考えてみると「それがあったか!」と目からウロコな感のある産業、とも思える。
 でも、当時の人々にとっては単に「生業のひとつ」として存在していたもの、なんだか当たり前すぎること、だったのかもしれない。だからこの産業についての記録を残そうとする人も現れず、あっという間に記憶の片隅に追いやられてしまったのかもしれない。
 しかしガラス工場の火は今、たったひとつだけ残っている(困難の中で奮闘しているのをご存知の方も多いだろう)。ここで絶えてしまっては困る。

 かつて、新津の街の端っこにはガラスを作ることを生業としていた人がたくさんいた。彼らはきっと、華奢なものでもどっしりしたものでも、ずっと手元に置いておきたくなるものも小さいけど役に立つものも、とにかくいろんなものを作っただろう。
 新津の人の手から生まれたそれらが、誇るべき産業の産品として、たくさんの人のもとに届けられた。そんな時代が、たしかにあった。今も、その火はまだ消えていない。
「石油の街」だった新津。でもそれだけじゃなかったんだよ、という側面を伝えてくれるモノとしても、ずっと残ってほしい。 




参考文献:
新津市史 通史編 下(平成6年)
新津商工名鑑(昭和33年・39年・51年・60年・平成2年)
ゼンリンの住宅地図 市制30周年記念版(昭和56年)
ニイガタカラ.net

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