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大自然と音と人と#1

プロローグ

―2月上旬、とあるご縁があって、親近者だけで行われた「ミニコンサート兼新年会」に参加させていただいた。
 演奏するのは緑郷の山奥から音楽活動を発信する「敦賀ひろき」さん。ひろきさんは住居の一室に置かれた小さなグランドピアノでオリジナルの曲を数曲披露した。中には歌入りの曲もある。実体験から生まれたという曲はピアノ伴奏と歌声だけというシンプルな構成ながら、目を閉じるとその情景が手に取るように浮かんでくる。
 宅内でのコンサートが終わると、ひろきさんは「皆さんでこの素晴らしい情景を楽しみましょう!」と外へ飛び出し、マイナス10度以下、大粒の雪が降る中、電子ピアノで1曲の演奏を始めた。通常のコンサートでは90分間の演奏を披露するひろきさんだが、続けて10分以上ソロピアノを演奏することはまだできないと話す―

緑郷の“秘境”

 ひろきさんの住居兼音楽事務所「音むげん工房」、「ひろきの音塾」、妻あきさんの美容室「かみごとの森」があるのは、“長峰”と呼ばれる山中の地区。大家さんの話では、以前は20戸ほどの家があったらしい。しかし今、住宅の前の道路にあるのは敦賀さん宅を含め2戸だけだ。町民でもどこにあるかわからないこの場所を本人は“秘境”と呼び、移住を繰り返す人生の中でようやくしっくりする場所に出会ったと話す。「都会暮らしが長くて、土の上を感じる場所が憧れでした」。“不夜城”と呼ばれる東京に住んでいた頃は、人間が時間を支配していると感じていた。今は太陽が昇れば明るくなり、沈めば暗くなる。だから日が昇ると同時に活動を始め、夜9時には寝床に入る生活を続けている。人間がコントロールできない時間。自分が“自然が生み出す時間”に合わせなければならない。しかしそのことにより、地球上でほんの小さな“人間”という生き物が生かしてもらっていることを実感するという。
 ここで起きること一つ一つにいつも感動している。春の訪れを感じる雪解け、芽吹く樹木たち、白鳥が飛来する姿…。もともと住んでいる人にとっては当たり前の情景だろうが自分にとってはこれが宝物だという。不便さは感じない。これが生き物のあるべき姿なのだろうから。ひろきの音塾には、ピアノで音を出す楽しみ、声を発することの楽しさを感じようと幼児から大人までが足を運ぶ。中には遠方から何時間もかけて訪れる人もいる。ピアノや歌を学ぶだけの場所ではなく、情操教育の場。この素晴らしい環境で音というものを感じるために訪れることが“音旅”を楽しんでほしいと話す。営業のために広く周知するということはしない。多くの人を招き入れることはしたくないから。「この場所は大切な場所。だからこの価値をわからない人に荒らされたくないという思いがあるんです。でもこの価値観を共有できる人と分かち合いたいとも思っていて…。いつも心の中で葛藤しているんですよ(笑)」。

自宅でひろきさんはピアノと声の「ひろきの音塾」を開いている

降り立つ楽曲

 プロの音楽家として活動するひろきさん。これまで代表的な曲だけでも数百曲と生み出しているが、本人は“作曲といっていいのかな?”と笑いながら首をかしげる。「ある時、突然、音が降ってくるんです。それを楽譜に書き写しているだけです。だから何もせずにボーッとしている時の方が多いかな?(笑)。“こんな曲を書きたい”と思って書いたら、どうもしっくりこないんですよね」。
 先述のコンサートの時だ。代表曲「紫雲の風詩」というピアノ曲をひろきさんが披露した。
 この曲は讃岐・瀬戸内海の夕暮れの情景を表現したものだが、作曲した時は一度も当地を訪れたことが無かったらしい。その後、東京から香川県に移住し、実際の景色を目にした時に驚いたという。「作曲した時に頭に降り立っていた情景が、行く先々で現実のものとして目の前に現れたんです」。そうやって生まれてきた楽曲だから、瀬戸内海を見たことも無い自分にも手に取るように情景が思い浮かんだのかもしれない。

自宅の隣には東京都杉並区で長年、美容室を営んできた、あきさんの「かみごとの森」がある

本来の魂と違う器

 彼は“彼女”として生を受けた。本人は「魂が違う器に降り立った」と話す。ベビーベッドの自分を愛おしく覗き込む母親の顔を見て「本当の自分を見せてはいけない。この人を傷つけてはいけない」と直感していた。幼い頃から自分という存在が何者なのかと考えていた。歴史や神話を読み漁り、伝説上の異形の者や自然界に存在する不思議なものを見つけては自分を重ねたという。
 旭川市で産声を上げたひろきさんは、国家公務員(林野庁)である父親と、教員やピアノ講師として働いていた母親から、たっぷり愛情を注がれ育てられた。3歳の頃からピアノを始めたのは〝母親がピアノ講師〟という必然的な流れだった。始めは母親から手ほどきを受け、小学生からは転勤族として移住する先々で、著名なピアノ講師に師事した。いつも心の中には「いつしか母親を傷つける時が訪れる。それまでは期待に応えたい」という決心が、いつもブレることなく存在していたという。