当麻の記憶#8 伊香牛地区と親子山の昔話
当麻に屯田兵が入植したのは明治26年。しかし入植前から開拓が始まっていたのが当麻町と愛別町の間に位置する「伊香牛地区」です。なぜかと言うと伊香牛には水路の要である渡船場・駅逓があったため。この地区の名前はアイヌ語で“イイカウシ(越す所)”と呼ばれていたことが由来です。
この地区に生まれた白鳥富雄さん(昭和7年11月5日生)。当麻駅とともに今年開駅100年を迎える伊香牛駅があるこの地区は昔は非常ににぎわっていたと話します。終戦頃にはパチンコ屋、居酒屋、呉服屋、お菓子屋、床屋、豆腐屋…と商店が軒を連ねていたそうです。
太平洋戦争の真っただ中に幼少期を過ごした富雄さんは戦前は伊香牛小学校、戦時中は伊香牛国民学校(昭和16~22年)と改称された伊香牛小学校に通いました。宇園別、北星からも通う子どもがおり、高等科まで含めると400人以上の生徒が在籍していたそうです。子どもの頃の遊びはもっぱら“戦争ごっこ”。イタドリの木で鉄砲を作り、紙を玉にして敵味方に分かれ遊んだそうです。階級もつけられており、参加しなければどんどん階級が落とされるので毎日参加していたそうです。
伊香牛の開拓は屯田兵が開拓した伊香牛1・2区と個人が開拓した伊香牛3区に分かれています。伊香牛3区の開拓地は「細野農場」と呼ばれ300戸以上の小作人が農地を耕していました。子どもも多かったことから明治33年にはこの地区に簡易教育所が設置され、伊香牛小学校の起源となりました。2つの地域に分けられた伊香牛地区はお互いあまり仲が良くなかったとのこと。富雄さんが小学校に通っていた頃は、子どもたちもあまり仲が良くなかったそうです(現在はもちろんそのようなことはありません)。
国道39号線は当時、舗装されておらず、泥炭地のため道も悪く、がたがたの道だったことから“ドンドン原野”と呼んでいたそうです。
当麻スカイパーク滑空場入口付近の漑がい溝側には1体のお地蔵さんが祭られていました。灌がい溝に大量の水が流れており、水に流される人が多かったため、事故が無くなることを願って地域の人たちで建立したそうです。その後、国道39号線の舗装工事に伴い、親子山の親山頂上に移設。同様に駅前にあったお地蔵さんも移設され、今でも伊香牛の土地を見守っています。