シヴィル・ウォー視聴感想。


 なんか映画の感想の為にNote書くの初めてらしい。あんまり皆が語っていることを語っても意味がないので、適度に省いて書いてみる。

ネタバレ注意。



はじめに

 この前、『シヴィル・ウォー』を観た。すごく単純に、一文でこの映画を私なりに解説するなら「アメリカで起こった内戦のさ中で、ジャーナリストたちが渦中のワシントンDCへ旅するロードムービー」である。私はこの映画を観ながら色々の事を考えたし、諸々気付くこともあった。ただ、普段から精力的に映画を観ているとはとても思えないし、創作をやってるわけでも小説をしつこく読んでるタイプでもないので、映画を観た後にメモった中で「なんかこの辺はあんまりネットで触れられてないな」というのをつらつら書いていこうと思う。


「つまらない」?シヴィル・ウォー。

 この映画の感想に関してTwitterやらで散見されるのは「以外に凡庸なロードムービーだった」だとか、「新規性があるかどうかアヤシイ」だとか、「これじゃあ政治映画じゃなくてエンタメ映画じゃね?」だというものだ。多分一番取り上げやすいやつはNewsweekの評論なのでここらへんにリンクを貼っとく。
https://news.yahoo.co.jp/articles/aa725fcfb7869646d1c7275286b4519e022b11e3?page=2


 私自身も、シヴィル・ウォーで描かれる暴力行為そのものが新規性のあるものだとは思っていない。イスラエルがガザで虐殺を繰り返し、難民に対する排外行為が嫌なエスカレーションを起こしてる世界で、赤メガネくんや、ファシストの大統領がやることが特段特別なモノには見えない。というかどこか陳腐ですらあるとぱっと見思う。シヴィル・ウォーはそうした陳腐な、いわば「内戦あるある」なエピソードをいくつか挟みつつ旅をする中で、ジャーナリストたちが自分の内面を見つめなおしたり、老人から若者に狂気や経験を継承し、世代交代したりするロードムービーだと言えるだろう。構造的に近いとこでは「卵を巡る祖父の戦争」があるのではないだろうか。この辺りが、「なんかアメリカの内戦って聞いてたけど新規性がないねえ」と言われる所以だろう。

 また、ある段階の政治的な要素に関しては、アレックス・ガーランド監督は驚くくらい適当だ。彼はオハイオ辺りにいきなり新人民軍を成立させ、マオイスト民兵がいることを映画内で匂わせるが、その理由からしてあそび要素で登場させたものだ(  https://news.yahoo.co.jp/articles/5e0cdbfe808dd1e055844cdab957a7057c24d91d  )。また、ワシントンに進撃する勢力とワシントンで権力の座にしがみつく大統領の関係性は現実の政治から大きく乖離したものとなっている。この辺りでも、(実際テキトーだからしゃーないのだが)「アメリカの内戦って聞いてたけどなんかあんまり政治の話なかったね」という感想がでるのは当然だろう。

 では、何で私はこんなに延々と「シヴィル・ウォーが「つまらない」理由」について言及しているのだろうか?


模倣される国から模倣する国へ。「模倣の罠」と「シヴィル・ウォー」

私の意見を述べよう。それは、端的に言ってしまえばシヴィル・ウォー」という映画の価値は、今まさに分断されつつあるアメリカで、人権・民主主義・自由主義を全うしている(と信じられてきた)「丘の上の町」たるアメリカを徹底的にステレオタイプの内戦の舞台として描いた事にあるというものだ。逆に、アメリカを「丘の上の町」だと考えていない人、或いは、アメリカを過度に理想化していない人にとってはスクリーンに映るのはステレオタイプのロードムービーであり、ステレオタイプの内戦映画である。面白いと思うのは難しいだろう。

「模倣の罠」という本がある。これは冷戦以後の社会主義が敗北し、自由と民主主義が唯一の勝者となった世界で、如何に東欧とロシアでポピュリズムが流行するに至ったか、或いはアメリカにおいてトランプ主義が流行るに至ったかを説明しようとした本だ。この本では、1990年以降、アメリカと西ヨーロッパの自由民主主義体制が「唯一の成功したモデル」として世界に示され、模倣の対象とされたこと自体が現代の自由民主主義の没落を引き起こしたという説明がされる。東欧では、EUへの参加と「普通の国」としての自由民主主義を適用しようとし、模倣する側として改革を実行した結果、皮肉にもポピュリズムの土壌を築いてしまった。ロシアでは、冷戦後の敗北感の中で自由民主主義は政治工作と宣伝の結果の出来レースとして受容(模倣)され、結果としてプーチンの台頭を招いた。こうした中で、模倣される側であるアメリカでは、他の国によるアメリカ型民主主義モデル自体の模倣がアメリカの競争力を削ぐものであることが叫ばれる。政治機会主義者であるトランプはそうした模倣への反発、また模倣を促進しようとしたリベラリズムの思想そのものを批判するポピュリストになることで一大勢力となった。これが大まかな本の趣旨である。

ここで共通するのは、アメリカ・西ヨーロッパの「自由民主主義」を冷戦後唯一の理想として示し、他国がそれらを模倣するーーーという体制への内外からの反発である。模倣する側は、常に後進国、模倣する側としての己を自覚し続け、それが市民の感情的反発を呼び起こす。模倣される側は、自身の優位が切り崩されていく事、アイデンティティが模倣されることに感情的に反発する。トランプは、こうした感情の反発を、上手くアメリカ第一主義や排外主義と結び付け、政治勢力を得るに至った。その過程で、トランプは「アメリカは模倣すべき対象である」という事自体を否定する。すなわち、オバマやクリントンといったリベラリスト政治家の称揚する「自由民主主義の輝ける丘の上の町」たるアメリカは政治的にも経済的にも成功しているわけではない、むしろ様々な問題を孕んでいる普通の国であるという、ある意味では明白な真実を喝破する。(重要なのは、トランプは、そうした状況を憂いているわけではなく、単に自身の政治集団の利益を得るためにこういう事を言っている点であり、これは東欧のポピュリストたちも同様である。「模倣の罠」が言いたいのは、自由民主主義を模倣する過程で彼らのような人民の権利や事実を無視した政治機会主義者に如何に支持が集まったかという事であるという事は強調しておきたい。あと私がトランプを支持するつもりがないことは明記しておく)。

 まさに私が「シヴィル・ウォー」を観ているときに思い起こしたのは、「模倣の罠」であった。理想の国たるアメリカを舞台に、ひたすら陳腐な私的暴力の氾濫が描かれる。狂おしいくらい我々が有史以来見てきた、偏見や自己利益や感情に基づく好き勝手な戦闘・暴力・虐殺が延々と繰り返される。ラストの周辺の絵面も我々にとっては見慣れたものだ。しかし、この風景が映画の中で投影されるのは、本来「模倣される側」であり、自由民主主義のモデルであったアメリカなのである。いわば、内戦中の国家を善導し、領導する「模倣される側」であるべきアメリカが、中東や第三世界の内戦と暴力の連鎖を「模倣する側」になっているのである。ところが、この映画のニクい所はそれだけではない。映画の中のアメリカ内戦の風景は、基本的には全くステレオタイプの模倣でありながら、如何にもアメリカであればこういう事が起こりそうだなという点を突いてくる。内戦を無視しながらも、武装警備兵が屋根の上にいる町、私的に買い集めた装備で武装したアロハシャツの民兵、独自に商売を行うガソリンスタンドでは、全員がライフルを持ち、西部開拓時代さながらの自存自衛が営まれる。内戦中の国家らしからぬ煌々としたビル群の夜景を進撃する、内戦中の軍隊とは思えない高級かつ統制された軍隊・・・・・・・・。これらは確かにアメリカでなければ、あるいはアメリカだから起こるかもしれない説得力を持っている。ステレオタイプの内戦を徹底的に模倣する架空のアメリカの中に、確かにアメリカでなければ得られない何かを感じるのである。アメリカでこういう映画が流れ、多くの人々が影響を受けること自体に、あるいは映画の中に、人々の意識の中でのアメリカの「模倣される側」から「模倣する側」への転落を見ることができる。「シヴィル・ウォー」の魅力はそういう所にあるのだと思う。

 「模倣の罠」では、模倣される空間としての英語圏が世界に開かれている一方で、英語圏からは外部が不透明であることも述べられる。私たち日本人は中学のころから英語をやり、アメリカのコンテンツに触れ、アメリカの生活やその政治空間に良く触れている。我々からはいわばアメリカの政治は透明に見通すことができる。しかし一方で英語圏における第二言語習得率に代表される数値は、アメリカからは外の国が透明ではないという事を意味する。端的に言って、「シヴィル・ウォー」を世界の人が見て面白いのだろうかという事は、この情報の非対称性にも依拠しているのではないだろうか。我々にとって必ずしも「模倣の対象」ではない普通の国であるアメリカを舞台に繰り替えされるステレオタイプの内戦は、別に面白いものではないだろう。「シヴィル・ウォー」が「つまらない」理由はここにもあるのではないか。


政治を省いた「シヴィル・ウォー」と描かれる暴力

 おわりに入る前に、アレックス・ガーランド監督がシナリオに用意した政治的なガバガバさについても言及しておこう。私と私の知り合いの中での下馬評では、これはむしろ政治的にリアルにすると映画館の中で市民同士がシヴィル・ウォーになる(くらいアメリカの分断はヤバい)から、あえていろいろの政治勢力のガバガバさを残したというものである。これはかなり説得力のある考察だ。それとは別の推論もここで述べておこう。内戦を「模倣する側」としてのアメリカは、いわば当初の主義主張を血で塗りつぶした暴力絵図である。「俺を殺そうとするやつを殺す」「俺の権益を犯したから殺す」「俺から見てアメリカ人でないから殺す」といった世界は、政治の延長として始まった暴力の応酬が個人的な暴力の応酬の集合体となった結果であり、そこではどんな主張も双方の暴力の下にかき消されてしまう。ファシストの大統領を倒す勢力でさえ、容赦ない前線処刑を行う。主人公が「こうなることをずっと警告していた」事態というのは、民主党か共和党どちらか、あるいは他の勢力が十字軍として相手を最終的に打倒して統一する聖戦としての内戦など最早現代では成立せず、種々大小さまざまの組織暴力が合意も目標もなく殺しあう地獄絵図のことだったのだろう(逆に言えば、そういったものを延々と見せられた「もう殺させるな」という観客の感想を殺される大統領に言わせるのはとてつもない皮肉である)。そこでは、元の政治勢力がなんであったかなど誰も気にしない。作中の人々はもう気にしてないし、映画を観ている私たちも気になどしないだろう。ガーランドはパンフレットのインタビューで、

「「民主党と共和党が『ファシズムは悪だ』と同意して手を組むことがなぜ想像できないのでしょうか?」と。もしあなたがそんな状況は想像できないと考えているのならば、それはあなた自身の問題を反映しているのかもしれません」

と述べているが、まさしくこの「想像できない」問題が行きつく暴力の応酬の先が本作の地獄絵図であり、だからこそ、分断し、誰も気になど止めない作中の政治は、現実の分断と地続きでなくても良い、むしろ霧の中の橋のようにぼやけた、あやふやな存在なのだと言えるだろう。


終わりに

 長々書いてしまった。本当は青春ロードムービーとしての本作の話の構造とかもメモってはいたのだけど、皆書いてることは書かなくてもいい気がしたので省いた。「ソウルの春」は正規軍同士のクーデター合戦でサイコーだったけど、「シヴィル・ウォー」は極限まで私的なものとなった暴力が大暴れしていて、ピンカーの「暴力の人類史」がチラついてサイコーでした。また観たいねえ。

おまけ

観終わってすぐ造ったメモ。字がきたねえ。

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