南平台の記憶・その10 三菱化成南平台アパートの表札
南平台社宅アパートにあったヒマラヤ杉のことから、話がだんだん昭和40年代の渋谷駅周辺にまで広がってしまっている。前回の記事で紹介したテレビ朝日の「ヘリ撮」動画は、東急本店のアドバルーンだけでなく、昭和44年に廃止される玉電が現役で動いている様子や、国道246号の上の首都高がまだ渋谷駅の谷間を越えるだけの1キロの区間だけだった様子も捉えていた。
そして、この動画と同日に撮られたと思われる二番目の動画には、宮下公園のあたりから青山学院周辺にかけての街並みが写っていて、こちらもたいへん興味深いので紹介しておこう。
昭和40年代の渋谷に郷愁を覚える、わたしのような「シブヤもん」がいたら、ぜひじっくりと味わっていただきたい。
このはじめの方の動画の中に、わたしが小さい頃に住んでいた南平台の社宅アパートが映っていたという話を前回にした。
まだこのアパートのことを詳しく紹介していないはずなので、ここでその名前を明らかにしようと思う。
その社宅の名は、三菱化成工業株式会社南平台アパート、
渋谷区南平台7−8というところにあった。
本日のトップに載せたのは、近くの鶯谷さくら幼稚園に通っていた社宅の子どもたちを登園前に門の前で撮った一枚の中に、懐かしい表札(?)というのか、正式には「館名板」というらしいパネルが写っていたので拡大してみたものだ。昭和45(1970)年ごろ。
現在この場所には、南平台ハウスという低層マンションが建っており、かつての面影は一切残っていない。
南平台ハウスが道のぎりぎりまでに建てられているからで、時代の趨勢なのだから
嘆いても始まらない。
アパートがあった頃は前面に広いスペースがとってあり、ちょっと坂になっていたが車両はそこでいったん停車し、手動で両開きの金属ゲートを開けて入るようになっていたのだった。
これから再び、南平台社宅アパートの記憶を辿っていくことにしよう。