南平台の記憶・その15 アパートへの移動販売いろいろ
南平台アパートに昭和40年代にきていた移動販売のこと。
よく覚えているのは、八百屋さん、果物やさん。
八百屋さんは幌のついたトラックの愛想のいいおじさん、果物やさんは、三輪トラックの、ちょっと怖い感じのおじさんで、多分一週間に一度、別々の日の夕方の時間帯に来てくれていた。(あ、でも果物やさんの方は、ほんとうに果物専門だったのだろうか・・・果物だけを売りに来るっていうことが、今思うと意外な感じがするので・・・。でもそうだったと記憶している。)
三輪トラックが帰り際に向きを変える時、おじさんがゆっくりではなくビューンとハンドルを切るので安定が悪そうで、いつも横転しそうで怖かったから、おじさんのことまで怖かったと覚えているのかもしれない。
あと、茨城あたりから来ていたらしい「おかつぎさん」も、頬かむりをして、背中に重たそうな背の高い背負子を背負って、けっこうひんぱんに野菜を売りに来てくれていたと思う。
ただ茨城から、というのは、ずっとあとになってから親に聞いただけで、正しいかどうかは分からない。
二人づれだったような気もするが・・・。このあたり、なんとも頼りない記憶だ。
その後、中学生のころ、もしかすると高校生になっていたかもしれない、すでに南平台から引っ越してはいたが、通学で渋谷を通り、よく東急プラザの一階にあったアートコーヒーに、ソフトクリームを食べに寄り道していた。その頃にもまだ、渋谷駅でおかつぎさんを見かけた。
渋谷駅西口を出て、246を桜丘の方に渡る歩道橋のたもとのところに、かつて電話ボックスが6、7つ並んでいたが、そのあたりの壁際に、ひとりのおばさんが背負子を担いだままもたれかかっているのを何度か見かけた。
今から10年か15年くらい前に、銀座でおかつぎさんが健在というウェブの記事を読んだことがある。わたしの知っている昭和40年代、50年代から、さらに30年たっているから、一世代下のひとだったに違いない。こういう伝統商法は、個人の地道な頑張りひとつで、意外に長く続くものなのだなと感心する。
そういえば、移動販売ではないが、ハチ公のところから井の頭線の方に向かう横断歩道(スクランブル交差点のことだが、まだその名前は普及していなかった)の手前の左側の歩道に、いつも靴磨きの人が3、4人並んでいたことも思い出す。だんだん人数が減って、最後は一人になってしまったような気がするけれど、それはだいぶ経ってからではなかっただろうか。大学にはいった1983(昭和58)年ごろには、まだ複数いたような気がする、のだが・・・、これまた頼りない記憶だ。
アパートに来ていた移動販売の話に戻ろう。
前回書いたように、お豆腐屋さんが自転車で来ていたのと、「たけや〜、さおだけっ」の物干し屋さんの車も、たまに敷地まで入ってきていたような気がする。少なくともその呼び声はよく耳にして、そんなにしょっちゅう来ても買う人いるのかな、と子供心に思っていた。でも、いざ必要になったとき、あんなに長いものを自分で持ち帰るのは大変だっただろうから、けっこう痒いところに手が届く商売だったのかも。それに、よく知らないけれど、きっと箒など細々したものも売っていたのだろう。
そして、一度だが傘直し屋さんが来た。これまた需要があったのだろう。アパートじゅうの家庭から、壊れた傘が何本も出てきたのを、その場で直して帰っていった。富山の薬売りのように、一年に一回来るとかいう約束でもあったのだろうか。でも、物心ついてから引っ越すまでの記憶のある7、8年の間に、傘直し屋さんが来たのに居合わせたのは、残念ながら一回だけだった。
最後に御用聞。
当時(昭和40年代)は御用聞がまだ健在で、玄関まで来てくれるお店の人たちに、母も注文を入れて配達を頼んでいた。お肉屋さん、鶏肉やさん(お肉屋さんと別だったような気がする)、それにクリーニング屋さんなど。そうそう、お米やさん、灯油さんももちろん配達だった。これはきっと必要な時に直接お店に行くか、電話するかで頼んだのだろう。
とはいえ、うちに個人電話が入ったのは、小学校3年の時、昭和48年のことで、それまでは、アパート共同の電話を使うしかなかった。電話をする時には、外にある「電話ボックス」まで行かなくてはならなかったのだ。だから家から直接電話できるようになったのは、それ以降だったはずだ。
だから御用聞は、昭和40年代まではニーズがあり、やはり威力を発揮したのだろう。
その後、下火になって行った一因には、スーパーなどの進出のほかに、電話が普及したこともあったに違いない。
次回は、アパートの敷地内にあった共同電話ボックスのことを思い出してみることにしよう。